レイン 雨の日に生まれた戦士 吉野 匠 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)覆《おお》う |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)四十|絡《がら》み [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]以上 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る] 〈帯〉 驚異の200万HITサイト! 断トツ人気のオンライン小説、待望の出版化! 戦士と王女は出会い、そして歴史が動く [#改ページ]   ——☆——☆——☆——☆——☆——☆——  異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。  科学文明の魔手はまだこの地を覆《おお》うことなく、廃《すた》れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。  そんな、剣と魔法が支配する世界——  ミュールゲニア全土を巻き込んだ大戦から、長い長い時が流れた。  危ういバランスを保っていた平和は、そろそろ終焉《しゅうえん》を迎えようとしている。  大陸北部地方の大国ザーマインは、新たな王を迎えて生まれ変わった。  彼は小さな権力にしがみつくことを良しとせず、今や世界制覇《せかいせいは》の野望に燃えている。  最強の王が発する命令の元、漆黒《しっこく》の軍団が一斉《いっせい》に侵攻《しんこう》を始め、同時に複数の国と戦火《せんか》を交えるに至っている。  そして、そんなザーマインの侵略《しんりゃく》を受けようとしている国の一つに、大陸南西部の小国「サンクワール」があった。  国力はかの大国の一割にも満たず、士気も振《ふ》るわない。  さらには、現王は貴族のみを過剰《かじょう》に優遇《ゆうぐう》し、既に人心《じんしん》を失っている。  弱小国サンクワールの滅亡《めつぼう》は、もはや避けられない運命のように見えた……   ——☆——☆——☆——☆——☆——☆—— ※|度量衡《どりょうこう》はあえてそのままにしてあります。 [#改ページ] 〈登場人物紹介〉 レイン:25歳だが、肉体年齢は18歳で永遠に停止 本編の主人公で、小国サンクワールの上将軍。本人曰く、「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が売りの、世界最強の男」。しかし、時に隠れた優しさを見せることも。 シェルファ・アイラス・サンクワール:16歳 サンクワールの姫君。父王には構ってもらえず一人でいることが多い。数年前にレインと出会い、その優しさに触れ電撃的に恋をする。今はレインとの約束が心の支え。 ラルファス・ジュリアード・サンクワール:25歳 本姓はジェルヴェール。レインと同じく、サンクワールの上将軍。建国の祖《そ》である五家の一角。友情に厚い騎士。 セノア・アメリア・エスターハート:20歳 レインの副官で千人隊長。生粋《きっすい》の貴族だが、普段の言動とは裏腹に、根は素直で優しい。 レルバイニ・リヒテル・ムーア:24歳 通称はレニ。レインの副官。かなり臆病《おくびょう》な性格だが、腕は確か。母親が没落《ぼつらく》貴族だった。 ギュンター・ヴァロア:年齢不詳……外見は20歳そこそこ 常に苦い表情を崩さない、レインの股肱《ここう》の臣。寡黙《かもく》で有能な男。主に諜報《ちょうほう》や工作担当。 グエン:35歳 山賊《さんぞく》にしか見えないが、ラルファスの副官。熊をも素手《すで》で殺しそうな髭《ひげ》もじゃの巨漢《きょかん》。 ナイゼル:21歳 同じくラルファスの副官。物静かな美少年風の騎士。 ダグラス王:45歳 サンクワールの王。無能ではないが、その施政《しせい》は公平さを欠き、人心を失いつつある。 ガノア:年齢不詳 サンクワールの貴族であり、上将軍。身分意識が強く、レインを毛嫌いしている。 ギレス:年齢不詳 同じく貴族出身の上将軍。強欲《ごうよく》で好色《こうしょく》。利によってのみ動く男。 ユーリ:16歳 敵の間諜《かんちょう》として、諜報《ちょうほう》活動をする少女。しかし、レインにあっさり見破られてしまう。 ガルブレイク:年齢不詳の中年 ザーマイン遠征軍の総指揮官。知よりも武を好むきらいはあるが、老練《ろうれん》な武将。 ルミナス:33歳 遠征軍の副官で知謀《ちぼう》の人。ちょっと皮肉屋。数少ない、レイグル王の正体を知る男。 ジャギル:年齢不詳 ザーマインの宰相《さいしょう》で、文官の筆頭《ひっとう》。有能だが胆力《たんりょく》に乏しく、王の言いなりとなっている。 レイグル王:年齢等は不詳 大国ザーマインを統《す》べる王。5年前、前王を打して玉座《ぎょくざ》に着いた。恐るべき力の持ち主。 フィーネ:故人 少年時代のレインの恋人。レインと将来を誓った仲だったが、凶刃《きょうじん》に倒れ帰らぬ人に。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_003.jpg)入る] レイン 雨の日に生まれた戦士 吉野《よしの》 匠《たくみ》   目次  プロローグ  第一章 レイン、謹慎《きんしん》になる  第二章 ラルファスの戦い  第三章 シェルファ、ガルフォート城を去る  第四章 再会  第五章 決戦  エピローグ 雨の日に生まれたレイン  特別書き下ろし編 友誼《ゆうぎ》の始まり——ルナンにて——  あとがき [#改ページ]  プロローグ  自分の城の裏庭をゆったりと散歩していたレイグル王は、気配を感じてふと立ち止まった。  近辺にはべっていた衛兵《えいへい》達がいつの間にか消えており、代わりに見慣れた数人の男達が、ばらばらと中庭に侵入してきた。  このザーマインを支えてきた将軍達であり、今はレイグルに臣従《しんじゅう》する身でもある。  しかし、作り物とはいえいつも浮かべていた恭《うやうや》しい表情が消え、今彼らの顔に浮かぶのは、殺気のみ…… 「ほお。俺の手間を省いてくれたか。自分達から馬脚《ばきゃく》を現すとは」  片眼を隠すほど長い、煌《きら》めく銀髪をかきあげ、レイグルはすうっと黒瞳《くろめ》を細める。  怜悧《れいり》な美貌《びぼう》に凍《い》てつく表情があった。  微塵《みじん》も動揺を示さないその態度に、歴戦《れきせん》を誇る四将軍達は、思わず後退《あとずさ》りしたい衝動にかられた。  が、代表で四十|絡《がら》みの中年、アーヴィンが大声を発した。 「黙れ! 五年前に先王陛下がおまえに殺されて以来、我々は耐えに耐えてきた。しかしっ。もう我慢の限界だっ。この世界に、悪戯《いたずら》に争いを持ち込もうとするおまえのやりよう、我々は絶対に看過《かんか》できんっ」  そうだそうだっ、と残る三人も口々に叫ぶ。その勢いを保ったまま、それぞれ剣を抜く。四本の長剣が、陽光を反射して一斉にぎらりと光った。  しかし、それでもレイグルの余裕は消えない。  外見は明らかに二十代、将軍達に比べれば若輩者《じゃくはいもの》だろうに、ただ一言、「くだらぬな」と吐き捨てた。 「なにっ」 「おまえ達ごときの実力で、この俺が倒せると本気で思うのか。そこまで愚《おろ》かだったのか。ならば、ちょうどいいやっかい払いだ」  人ではなく、物を見るような醒《さ》めた目つきで四人を見やる。 「今の俺が望むのは、余人を超えた——いや」  言いかけ、ふっと笑う。 「余人どころか最強の魔獣《まじゅう》をも倒す、強く有能な部下だ。おまえ達のように、自分の実力も計れぬ凡才は不要。特に今後の計画にはな」  王の言葉を聞き、四人は一様に眉をひそめた。  最強の魔獣《まじゅう》といえば、数千年を生きたドラゴンのことを指すが、レイグルの言うのはドラゴンスレイヤーのことだろうか。  いにしえの伝説に言う。  ドラゴンを独力《どくりょく》で倒した者は、この最強の魔獣《まじゅう》が持つ力を、全て受け継《つ》ぐことが出来ると。  ……無論、そんなものはあくまでも単なる伝説である。 「馬鹿馬鹿しい。やはりおまえは、どこか狂っている。もっと早く決行すべきだった」  彼らの一人、ピアズが吐き捨てた。  レイグルは冷笑を浮かべたのみである。 「馬鹿馬鹿しい……か。まあいい。どうせ、おまえ達はここで死ぬ。これから先の話は、おまえ達には無縁なこと——」  途端に。  レイグルは動いた。  バシュッ  不吉な真紅《しんく》の輝きが、反逆者四人の瞳を灼《や》いた。  抜き放った魔剣、その刀身が放つ紅《あか》き血のような魔法のオーラを引きずり、彼らのうち、ピアズとの距離を一瞬のうちに詰める。  まさに、『人間を越えた』速さだった。  戦《いくさ》慣れしているはずのピアズに出来たのは、実に剣を持ち上げることだけだった。  それほど圧倒的な速さであり、レイグルの姿がぶれて見えたくらいである。  雷光のように振り下ろされた魔剣が、ピアズをガードした剣ごとまっぷたつに縦割りにする。  すかさず、レイグルがさっとまた間合いを取る。一拍《いっぱく》置き、ピアズの身体が鎧《よろい》ごと割れた。噴水のように鮮血がしぶき、側《そば》で呆然とする元同僚達に降り注ぐ。 「ひっ」  思わず息を呑み、アーヴィンが数歩下がる。レイグルは無造作に片手を上げ、小さく声にした。 「魔光よ!」  と、真っ白な魔力の光が爆発的な奔流《ほんりゅう》となり、彼の掌《てのひら》からほとばしった。怯懦《きょうだ》を示したアーヴィンは、まともにそれをくらい、真っ黒に胸部を炭化《たんか》させて倒れ伏す。ブスブス煙りを上げている死体から、残る二人がざざっと退《ひ》いた。 「ま、魔法だと!? しかし、ルーン(呪文)の詠唱《えいしょう》がなかったぞっ」 「こんなことが、こんなことが人間に可能なはずはないっ。まさか貴様の正体は——」  レイグルは、皆まで言わせない。  またしても無造作に間合いを詰め、魔剣を豪快に横薙《よこな》ぎにする。なんと、二人を一緒くたに斬っていた。  彼らは呻《うめ》き声すら上げられなかった。  ほとんど身体が切断するほどの傷を負《お》い、両者とも瞬時《しゅんじ》に絶命《ぜつめい》した。既に生気を失った目が恨めしげに空を見上げ、噴《ふ》き上がる血が大地をまだらに染めていく。  生きている時は、その勇猛《ゆうもう》さを誰もが認めた将軍達だった。それがたった十秒ほどの間に、四人とも物言わぬ死体と成り果ててしまったのだ。  レイグルは別に表情を動かすでもなく、愛用の魔剣「ジャスティス」をパチンと鞘《さや》に収める。  もはや死者達には目もくれず、冷静な顔で天を仰いだ。 「さて。こうなると、いよいよ新たな部下を捜さねばな。俺が求めるほどの者が、この世界にいるかどうか……」  独白《どくはく》のように奇妙なセリフを呟《つぶや》き、唇を歪《ゆが》める。  まあ、候補《こうほ》がいないでもない。  そろそろ、試すべき時だろう…… [#改ページ] [#挿絵(img/01_013.jpg)入る]  第一章 レイン、謹慎《きんしん》になる  サンクワールの主城《しゅじょう》、ガルフォート城。  真っ赤な絨毯《じゅうたん》を敷《し》き詰《つ》めた謁見《えっけん》の間《ま》に、大勢の重臣達が集まっていた。  今日は軍議《ぐんぎ》である。  奥の一段高い玉座《ぎょくざ》に腰を据《す》えたダグラス王の前に、それぞれ定められた地位に従い、文官と武官が左右に並んでいる。  そのほとんどが金髪に碧眼《へきがん》……つまり貴族の者達だ。  ただ、王の至近に跪《ひざまず》くレインのみが、つやつやした黒髪に、黒い瞳といった外見的特徴である。今日はまた、一段と悪戯《いたずら》っぽく瞳が光っている。  この男は、いついかなる場面においても、不敵かつふてぶてしい表情に見えるのだが、ご多分に洩《も》れず、今もそんな顔である。  少なくとも、ラルファスにはそう見えた。  彼自身は、細面《ほそおもて》の整った容貌《ようぼう》であり、あまりレインとは共通点がない。  普段、このガルフォート城内の女性達が、上下の別無く熱を上げる優しい顔立ちなのに、今は色濃く憂《うれ》いが浮かんでいる。  レイン、もういい加減にしろと思っていたが——あいにくラルファスの祈りは、同年代の親友には届かなかった。 『先程から申し上げる通り、ザーマインの露骨《ろこつ》な誘いに乗るのは得策ではありません。兵を差《さ》し向《む》けるなど、もってのほかですね。ぶっちゃけ、わざわざ相手の罠に頭から飛び込むのと同じかと』  イヤミなほどでっかい声を張り上げるレイン。  ダグラス王は巨眼に怒りの炎を燃やし、不遜《ふそん》な男を睨《にら》みつけた。 「貴様っ、その口の利《き》き方はなんのつもりかっ。わしの作戦に異を唱《とな》えるだけでなく、軽んずる気と見える!」  頬に大きな傷の残るダグラス王が巨体を震わせて怒鳴った。  文官達の喉が鳴ったが、怒鳴られた当人であるレインは、まるで応えてはいない。それどころかこの状況を楽しむかのように、口元が綻《ほころ》んでいるくらいだ。  並の胆力《たんりょく》ではないのである。……厚かましい、とも言うかもしれないが。  その証拠に、レインはちらっとラルファスの方を見て、にんまりと笑った。  目で問いかけてみたが、既に友は正面に向き直っていた。  そして、またしても王に諫言《かんげん》——というか、文句。 「作戦? 陛下、四万の敵に一万そこそこの兵をぶつけるのは、作戦とは言わぬかと。自殺の方法としてなら、なかなか確実そうですが……」 「なにっ」  ダグラス王はギリッと歯を食いしばった。そろそろ忍耐がぶち切れそうである。  ラルファスには、レインの気が知れなかった。王の気が短いことは、彼もよく知っているはずなのだ。このままでは冗談ではなく、レインは王に斬られてしまう。  おまえは、それほどこの決定が不服なのか……  大陸北方の強国ザーマインが、ルナンを攻め滅ぼしたのは、つい半年前のことである。  このサンクワールのすぐ北に国境を接し、長年サンクワールと争ってきたルナンも、南下を始めたザーマインの前には、ひとたまりもなかった。  敵が減って嬉しい、などと喜んではいられない。  どう考えても次にザーマインが狙うのは、ミュールゲニア大陸南西端の小国、つまりこのサンクワールに他ならない。  もちろん、ルナンの崩壊とともに、すぐに警戒が強化された。間諜《かんちょう》を防ぐため、旧ルナンの国境には関所が設けられ、私兵を擁《よう》する各上将軍《じょうしょうぐん》達は、王の命令で戦いの準備に追われた。  そして先月の末。予想通り、とうとうレイグル王が、大規模《だいきぼ》な大軍を動員した。  王の定めた指揮官の命令の元、一斉に南下し始める。こうなると、目標はこのサンクワールだと子供でもわかる。  ダグラス王その人も、敵を奇襲《きしゅう》によって打倒する覚悟を固め、総勢七人の上将軍《じょうしょうぐん》達に出陣を命じたのだ。  ラルファス以下の上将軍《じょうしょうぐん》達は、その命令に従い、私兵を引き連れて居城から続々とガルフォート城に入城した。  ——のだが、レインだけはその命令をあっさりと無視し、ただ一人、手ぶらでやってきた。これだけでも厳罰《げんばつ》物である。  それに加えてこの反抗的な物言い……ラルファスがハラハラするはずである。 「レインよ、わしはおまえを平民にも関わらず取り立て、領地持ちの上将軍《じょうしょうぐん》に据えてやった。騎士として最高の地位を与えたのだぞ、それをっ」  怒りのあまり、王は声が詰まったようだった。対するにレインの返事は軽い。 「はあ。それについては感謝してますが」  どう聞いても感謝などしてそうにない。むしろ、相手を馬鹿にしているようだ。 「おのれっ、ぬけぬけと。ならばっ、どうして命令通りにせぬ!」  はあというため息の音。  無論、レインが発したものだ。 「先程から申し上げているはず。相手に劣る兵力で、策も無くぶつかるなど反対ですと。ご理解いただけませんかね」  やれやれ、という感じで首を振る。 「少数の部隊で大軍にぶつかり、華々しく散る——傭兵《ようへい》上がりの私としては、そういう玉砕戦法《ぎょくさいせんぽう》は趣味じゃないですしね」 「なにが、『趣味じゃないですしね』だ、愚《おろ》か者っ。おまえの意見など、問題ではないわっ」  そうだそうだっという声が、そこかしこからした。  サンクワールの軍事面を代表する、ラルファス以外の五人の上将軍《じょうしょうぐん》達である。レインの評判は、同僚にもすこぶる悪いのだ。もっとも、本人はさっぱり気にしていなかったが。 「旧ルナンの地は既にザーマイン領、つまり敵地です。そこへノコノコ奇襲《きしゅう》を掛けに行くなど、正気とは思えません」 「き、貴様っ、それが主君に言う言葉か!」  ジャギン!  とうとうダグラス王が剣を鞘走《さやばし》らせた。  玉座《ぎょくざ》から立ち上がり、大股でレインに近づこうとする。周囲のどよめきの声。その中には何かを期待するような響きも多い。  さすがに、これを見過ごす訳にはいかない!  ラルファスは素早くその場から走り出て、盾になるかのようにレインの前に立ちふさがった。 「お待ちください、陛下っ」 「どけっ、ラルファス! 今日という今日は勘弁ならんっ」 「それにしても斬るなど……やりすぎでありましょう!」 「黙らぬか、ラルファスっ」 「いいえっ、黙りませぬっ!」  気迫を込めた大声に、辺りはたちどころに静まりかえった。驚いたのか、王でさえ持ち上げていた剣を下ろした。  いつもは穏やかなラルファスだが、時として別人のような気骨《きこつ》を見せる事がある。今がまさにそうだった。  ラルファスは、一歩も退《ひ》かぬ構えで続ける。 「これから戦いだというのに、お味方を斬ってなんとします。今少しお考えください」  鼻白《はなじら》んだ王に代わり、反撃は他から来た。  上将軍《じょうしょうぐん》の一人ガノアが、痩《こ》けた頬をひくつかせ、得意気に発言したのだ。 「ラルファス殿、いかに友を庇《かば》うためとはいえ、その行いはあまりに陛下の意志をないがしろにしすぎでは」  ——要するに、「黙って見てろ!」と言いたいのだろう。  横で同僚のギレスがしきりに頷《うなず》いている。こちらは、細身で気取った顔のガノアと対照的に、樽《たる》のように太った男だ。どちらも貴族意識が強く、レインとの仲は最悪である。  ちょうどいい、レインが斬られて死ねばいいと、密かに熱望していたに違いない。ラルファスは貴族も貴族、王家の遠縁に当たる大貴族だが、昔からこの二人が嫌いだった。 「愚《おろ》か者!」  ぴしりと言い切る。 「ここでレインが死んだところで、喜ぶのは敵だけなのだぞ。それがわからないのかっ」  ガノアはむっとしたように何か言い返そうとしたが、ラルファスの瞳を覗き込み、開けた口を閉ざした。ギレスも同様である。  ダグラス王もまた、苦々しい顔付きで剣を鞘《さや》に戻す。今のセリフが、自分に当てつけられたように感じたのだろう。のしのしと玉座《ぎょくざ》に戻り、忌々《いまいま》しそうにラルファスとレインを見た。 「まあよい。こやつを斬ったところで、せんないことだ」 「そうそう」  他人事のように、軽い口調の合いの手を入れるレイン。  王の眉間《みけん》に、深々と縦皺《たてじわ》が刻まれた。  おまえは黙っていろと、ラルファスはレインを片手で制す。友と並んで跪《ひざまず》いた。 「陛下、お聞き届けいただき、ありがとうございます」 「……だが、こやつは兵を率《ひき》いず、手ぶらでここへ来た。命令無視は命令無視、今後の事もある。全く罪に問わない訳にはいかんぞ」 「それはそうですが」  困ったラルファスは隣を窺《うかが》ったが、レインは人ごとのようにこちらを見返しただけだった。自分の事だというのに、まるで真剣さが見受けられない。  仕方なくラルファスは、 「陛下、それではレインには謹慎《きんしん》をご命令あればいかがでしょう」 「謹慎《きんしん》とな」 「はい。この戦《いくさ》にはどのみち間に合わないのですから、それが適当かと」 「むう……」  ダグラス王は濃い顎髭《あごひげ》を擦《さす》り、いかにも渋い顔をした。気に入らないのだが、ラルファスが有力な大貴族のため、無下《むげ》に反対もできないのだった。いくら王とはいえ、筆頭貴族《ひっとうきぞく》のラルファスには一目置いている。 「いささか、軽い処罰のように思うが」  ぶすりとそれだけを言う。 「そうでもありません」  ラルファスはすかさず、自分でも信じていない事を進言する。 「陛下が軍を率《ひき》いてザーマインを打ち破り、見事|凱旋《がいせん》なされば、レインも己の不明を悟らずにはいられますまい。我らに対しても面目を失うことになります。名誉ある騎士にとって、これほど辛い処罰はありますまい」  騎士の名誉など、レインは鼻歌交じりでそこらに捨てそうだが、ラルファスはあえてそう言った。 「むう……それは、な」 「でありましょう。陛下、ご決断を」  促され、王は砂を噛《か》んだような表情で告げた。 「まあよかろう。ではレイン、領地にて謹慎《きんしん》を命じるっ。この程度の処罰に止《とど》め置《お》いた事を、感謝するのだな!」 「ははっ。まことに有り難き幸せ!!」  素晴らしく明るい声で、レインは形だけは恭《うやうや》しく頭を下げた。同じく頭を低くしたラルファスが横目で見ると、あろうことか不敵な微笑とともに片眼をつむった。  まさか、全部計算ずくだったのか。だとすればしょうがない奴だ。  ラルファスとしては、苦笑する他はない。  だがまあ、親友が無事でいてくれるのならそれに越したことはないだろう。この戦いには、どう考えても勝ち目はないだろうから。  この時、ガノアとギレスの二人がラルファス達を冷たい目で見つめていたのだが、幸か不幸かラルファスは気付かなかった。  その後はさしたる意見も出ず、すぐに軍議《ぐんぎ》は解散となった。  ラルファスはレインを、城内の自室へと誘った。  これから戦いとなれば、下手をすると今生《こんじょう》の別れとなるかもしれない。 「一杯やるだろう?」 「ああ、いいな」  爽《さわ》やかに笑うレイン。  私室に入ると、レインがどかりとソファーに座った。長い足を高々と組み、早くもくつろいでいる。  ラルファスは、本棚に埋もれたようなキャビネットから、酒の瓶とグラスを取り出し、たっぷりと注《つ》いでやった。それから自分も向かい側に座る。  注《そそ》がれたそれを一息で飲み干し、レインはすぐに自分でおかわりを注《つ》ぐ。いつもながら豪快な飲みっぷりである。ラルファスは自分のグラスをゆっくりと傾けつつ、目を細めて正面の友の顔を眺めた。  若々しいその顔は、初めて顔を合わせた頃と何ら変わらない。とにかく、自分と同じ二十五歳にはとても見えない。せいぜい、十八〜二十くらいだ。  祖先はエルフではないかという噂のある、この国の貴族の血筋であるラルファスも、普通の人間より遙《はる》かに寿命が長く、従って老化も遅いのだが、この友はどういう理由でだろう。  思えばレインについて、自分はなにも知らないも同然なのだ。  と、そのレインがいきなり言った。 「ところで、さっきは悪かったな」 「なにがだ? もしかすると謹慎《きんしん》のことか? なんだ、やっぱり私の仲裁《ちゅうさい》を当てにしてたのか」 「ああ、予定に入っていた」 「それならそれで、教えておいてくれればよかったのだ。私が陛下をお止めしなければ、おまえ、どうする気だったんだ」 「おまえは必ず止めてくれると信じてたさ。第一、腹芸《はらげい》ができない奴にそんなこと言えるもんか」 「ふむ。それもそうだ」  ラルファスは深く納得した。確かに最初から聞いていたら、自分はおそらく顔に出してしまっていただろう。 「しかし、おまえがそこまで戦《いくさ》を避けるとはな。今度の遠征《えんせい》、それほど勝算なしと見たか」 「このままじゃ小指の先ほどもないな、勝算なんか」  実に気安く保証してくれた。 「こりゃ、完全にザーマインの罠だぜ。行軍《こうぐん》速度がやたらと遅いのも、わざとに決まってるね。ある程度まで懐《ふところ》に誘い込んだ後、袋叩きにするつもりだ」 「……そうかもしれないな。だが、それならどうすればよいと思う? 放っておいたところで、彼らはいつかは攻めてくるのではないか」 「サンクワール領で迎え討《う》てばいい。ただ、作戦は俺かおまえが立てて、しかも戦《いくさ》の指揮も俺達のどちらかが取る必要があるが、な」 「それは……しかし……」  ラルファスは顔をしかめた。  ダグラス王は、自らの作戦方針に口を出されることを極度に嫌がる。他のことならまだしも、こと戦いに関する限り、ラルファスの意見ですら聞こうとはしない。 「無理だろうが? ならどうしょうもないね、終わったね。単純に数が物を言うのが、この世界の戦《いくさ》だからな」 「——そうだな」  最後は妙な言い方だが、レインの言い分はわかる。  その分析は、冷徹《れいてつ》だが正しい。ダグラス王は個人的な武力はともかく、大局《たいきょく》を見据《みす》えた戦略を練《ね》る能力は乏しいのだ。どう考えても、先は見えている。 「とにかくだ。俺は、陛下のために命を投げ出すような殊勝《しゅしょう》な性格してないしな。柄《がら》じゃないんだ、勝てないけど特攻とか」  ラルファスは黙《もく》したままグラスを傾けた。  口は悪くとも、少なくとも間違ったことは述べてない。  王は、無茶な命令でレインを何度も窮地《きゅうち》に追いやったし、そんな主君に彼が身を捨てて仕える方が不思議だ。  第一、元々|傭兵《ようへい》上がりの彼には、この国に対する忠誠心などさしてない。ことによると全くないのかもしれないのだ。  しかし、人はそれぞれだ。踏みとどまって戦う愚《おろ》か者がいても、それはそれでいい……  レインがじっとラルファスを見る。 「……遠征《えんせい》に加わるのはやめとけ、と忠告しても無駄だな、その顔つきじゃあ」 「ああ。心配してくれるのは嬉しいが」 「——別に。色々とたかる相手がいなくなるのが、残念なだけさ」 「そうか」  ラルファスは静かに笑った。  最後に酒の残りをぐっとあおり、レインは思い切りよく立ち上がった。 「さて。そろそろ俺は行くぜ。何しろ謹慎《きんしん》だしな」 「うん。いいか、くれぐれも気をつけるんだぞ。おまえには無用の言葉かもしれないが」 「いや、おまえの方だろ、気をつけないといけないのは」  一瞬だけ、薄皮《うすがわ》が剥《は》がれるようにレインが内心の危惧《きぐ》を覗かせたが、たちまち元の平静な表情に戻った。  湿った感情など微塵《みじん》も見せず、まるでちょっと中座するだけといった態度で外に出る。ラルファスは彼を見送ろうと、一緒に廊下に出た。 「そうだ」  立ち去ろうとしたレインは、ふとなにかを思い出したように、 「前から聞こうと思ってたんだが、おまえ、ミシェールって女の子を知ってるか? いま十六歳くらいで、貴族の血筋らしいんだが」 「ミシェール? さあ……名前以外になにか特徴はないのか」 「そうだなあ。こう腰までの長い真っ直ぐな金髪で、ちょっと信じられないようなきれいな顔をしているな……声もいい」 「そんな特徴ではちょっとな。貴族は大勢いるんだ」  言いながら、ラルファスは少なからずあきれた。 「しかし、幾らなんでも年齢が開きすぎてはいないか。男女のことは、確かに私にはよくわからないが……」 「違う違う! 別にそんなんじゃない。そんな趣味ないし。ただ、ちょっと約束がな」 「約束?」 「いや、知らなきゃいいんだ。会えそうな場所はわかってるしな」  レインは手を振ると、何事も無かったように身を翻《ひるがえ》し、歩き去った。  最後まで一度も振り返らなかった。  自室に戻ったラルファスは、去った親友のことを思い、一人で飲み直した。  これからの不利な戦《いくさ》を思うと、余程の運が自分になければ、再びあの磊落《らいらく》な男には会えないだろう……  トントン。  じっと考えに沈むラルファスの耳に、やけに遠慮深いノックの音が聞こえた。この控えめな感じは、副官のグエンではあり得ない。 「はい。これは——王女様っ!」  無造作にドアを開けると、そこにはシェルファ王女がちょこんと立っていた。  腰まで伸びた真っ直ぐな金髪。そして、透《す》き通《とお》るように真っ白な肌。人一倍大きな瞳は、見る者をぞくりとさせるほど可憐で、澄《す》み切っている。  今日はいつもの寂しそうな表情ではなく、なぜかとても嬉しそうだった。  反射的に片膝をつこうとするラルファスを、小さな手で押しとどめる。 「おかまいなく、ラルファスさま。あの……ちょっとよろしいですか」 「もちろんです。どうぞ」  ラルファスは戸惑いながらも王女を招き入れた。王女は相当な人嫌いと聞くが、自分になんの用だろうか……  今年で十六歳になる王女と、実はラルファスはあまり面識《めんしき》がない。  せいぜい、宮殿内で何度かすれ違った時に会釈《えしゃく》したぐらいだ。別にラルファスが意図《いと》的に避けているわけではなく、元々王女は、いつも宮殿の奥の自室に籠《こ》もりっぱなしなのだ。  ただ、それは彼女の意志というわけではなく、どうやら父親のダグラス王の指図《さしず》らしい。  ともあれ、彼女のこの訪問は意外だった。  ソファーに座った王女は、物珍しそうにあちこちを見渡している。 「それで、どのようなご用件でしょう」 「はい……あの、ラルファスさまがレインのお友達だというのは本当ですか? 侍女《じじょ》からそう聞きましたけれど」 「……はい、確かに彼《か》の者は私の友ですが」  レインを呼び捨て? 随分親しそうだが。  ラルファスの戸惑《とまど》いはさらに増大した。 「では、レインの居場所をご存じありませんか。今このお城に来ているはずなのに、どこを探しても見つからなくて」  多分、ラルファスが珍しいこともある、という顔をしていたのだろう。  シェルファは小声で付け加えた。 「お父様には内緒なんです。こっそり部屋を抜け出してきたんです。レインに逢《あ》いたくて」 「——なるほど、レインに」  そう答えるしかなかった。  身を乗り出した王女の美しい顔が、微《かす》かに紅潮《こうちょう》している。誰が見ても、彼女にとってレインが非常に大切な存在なのだとわかる。  あいつ、いつの間にこの方と知り合ったのやら。  不思議である。そもそもレインは、ほとんどこのガルフォート城に寄りつかないのだ。 「あいつは先程までここにいたのですが……残念ながら謹慎《きんしん》中のため、居城へ帰りました」 「えっ……」  シェルファ王女の顔色の変化は、見ていて気の毒になるほどだった。ラルファスはこの少女が、失望のあまり泣き出すのではないかと心配になったくらいだ。 「仕方なかったのです。それに彼のためにはその方がよかったのかもしれません」  同情したラルファスは、シェルファに口止めをした上、今日の軍議《ぐんぎ》の模様を詳しく話してあげた。レインの狙いも含めて全部をだ。 「そう……ですか。レインがそんな手段を取るということは、この国はもう絶望的なのですね」  王女の口調には、レインへの無限の信頼が込められていた。 「認めたくはないことですが」 「そうですね」  そっと吐息《といき》を吐き、なぜか王女は、白いローブの胸元からペンダントを引き上げ、じっと見つめた。銀の鎖の先に古ぼけたコインが穴を開けて通してある。  ラルファスの視線に気付くと、そのコインを白い手に乗せ、こちらに見せてくれた。 「ラルファスさまはレインのお友達だから、特別にお見せしますね。レインにもらったこのコインは、わたくしの宝物なんです」 「恐縮《きょうしゅく》です。随分と古い物のようですね。あまり装飾品には見えませんが」  それは古いというより、汚いといった方がより正確だった。銀貨に見えるが、おそろしく汚れた表面に、なにかびっしりと彼の知らない言葉で字が彫《ほ》ってある。 「これは魔法のコインなんです」 「魔法、ですか」 「ええ。約束なので、どんな効果があるのかはお話し出来ませんけれど、つらい時にこのコインを見ていると、わたくし、いつも元気が出るんです。ただ、魔法の効果を発揮するのは、一度だけらしいですけど」  魔法の品、つまりマジックアイテムは、今の時代には大変な希少価値《きしょうかち》がある。物に魔力をチャージ出来るルーンマスターが、もうほとんどいないせいだ。  だがしかし……ラルファスは嫌な予感がゾワゾワと背中を走るのを感じた。  実は魔法の品なら、かつてラルファスも譲《ゆず》られたことがあるのだ。  それはまだ、ルナンとの戦いが続いていた頃のことである。王より出撃を命じられたラルファスは、出立《しゅったつ》の前夜レインと飲んでいた際、いい物をやると言われた。 「いい物?」 「ああ。これは俺が『大陸北部地方』を旅していた頃に、偶然ある遺跡《いせき》で見つけた物だがな……まあ、見てくれ」  もったいぶって出されたのは、どう見てもただの石ころだった。ただ、ちょっと緑がかってはいるが。 「ふむ? 私にはただの石にしか見えないな」 「あー、これだから素人は……。これはな、一度だけしか効果がないが、持ち主の命がヤバくなった時に、その危険を肩代わりしてくれる。ほんとだぜ、嘘じゃない」 「ほう!」  すっかり感心して唸《うな》るラルファス。 「用心のために、おまえにやる。今度の戦いに持っていけ。いい、いい。遠慮すんな。その代わり、ここはオゴりだぞ」  言いながら、レインはもう一度、効果のほどは嘘じゃないぞと念押しした。  ラルファスは深く感謝してその魔法の石をもらい、戦地へ赴《おもむ》いた。  実際、その石は役に立ったように思えた。  激しい戦いの最中、彼の首筋を敵の矢が貫きかけたのだ。が、わずかに首に赤い筋を付けただけで難を逃れることが出来た。その後に例の石が消えていたので、すっかりそのお陰だと思っていたのだ。  ところが、帰国してから酒席《しゅせき》に招いて丁重に礼を述べたラルファスに、レインはあっさりと言ってくれた。 「ああ。ありゃただの石だ。俺がそこらの道端で拾った、な」 「……なんだって」 「ああ、怒るなって。何となく心強かったろうが。戦いはほら、気の持ちようが肝心《かんじん》だからなあ。いやー、よかったなぁーハッピーだなー」  景気よく背中をぶっ叩かれ、ラルファスは飲んでいた酒を吹き出しかけた——  以上のようなシビアな過去を思い出し、ラルファスは思わず喉を鳴らす。  幸せそうに微笑んでいる王女に、恐る恐る尋ねてみる。 「時に王女様、レインはその銀貨についてなにか申しておりませんでしたか」  王女は何度か瞬《まばた》きを繰り返してから、 「そうですね……レインは次元の向こうの世界をも見てきたそうですが、この品に関しては、『大陸北部地方』を旅していた時に、偶然ある遺跡《いせき》で見つけた物——だとか」 「そ、そうですかっ」  あいつめ!  ラルファスの首筋に冷や汗が浮く。  苦悩する彼には気付かず、実に嬉しそうに王女が続ける。 「レインったら、おかしいんですのよ。わたくしは少しも疑っていないのに、嘘じゃないからなっ、て何度も言うんですもの」 「は、はあ……それはおかしいですね……はは、ははは」  上品に手を口にやり、王女は微笑んでいるが、ラルファスは少しもおかしくない。  今まで飲んだ酒が、全部、汗になって流れてしまった。  とにかく、さっさと話題を変えることにする。レインにまた会うことがあれば、その時に問いただそう。 「まあどのような効果があるにせよ、一度きりの効力なら、使わずに大事に取っておくべきでしょう」 「はい、わたくしもそう思います」 「安堵《あんど》しました」 「えっ?」 「——い、いえ。そう、それより王女様、ミシェールという名前に心当たりがありませんか」  話を変える為に何気なく出した名前なのに、王女は驚愕《きょうがく》の表情で腰を浮かせた。 「どうしてその名を? レイン!? レインから聞いたのですね」  その迫力に負けて頷《うなず》いてしまい、ラルファスは凍りついた。王女がレインに好意を寄せているのなら、ここで女性の名前など出すべきではなかったのだ。  ところが予想を裏切り、王女は花が開くように微笑んだ。ほっそりした手を組み合わせて、夢見るように言う。 「レインが、ミシェールのことを気にしていたのですね、ラルファスさま」 「は……ま、まあ。知らないかと聞かれたんです。それだけで……」  王女はろくに聞いてもいないようだった。頬を染め、そうですか、レインが……などと呟《つぶや》いている。完璧に、夢見る乙女の顔になっていた。多分、もはやラルファスなど目に入ってもいまい。  やはり私には、女性のことはわからない。  ラルファスはしみじみと思った。   ——☆——☆——☆——  低音の効《き》いた歌声が、風に乗って流れてきていた。  ユーリはもう何度目かになるが、石でもぶつけてやろうかと馬上から地面をキョロキョロし、結局は任務のためにぐっと堪《こら》えた。  青色のブラウスに白いスカートを穿いた、十六、七の少女である。  肩先できれいに揃《そろ》えられた手入れのいい黒い髪。リスのようによく動く薄緑の瞳が、勝ち気な光を放っている。大抵の男がかわいいと認める顔立ちだが、今は内心のいらだちのせいで、愛らしさは随分とダウンしてしまっていた。  ——もうっ、いつまで下手クソな歌を歌ったら気がすむわけ、あいつっ。おまけに、この寒いのにシャツとズボンしか着てないし。変人よ、変人!  この世にこんな音痴《おんち》がいるのか! と度肝《どぎも》を抜かれるほどのひどい歌である。なにやら男と女の恋の物語が歌詞になっているようだが、はっきり言ってただの騒音にしか聞こえない。  というか、聞いていると、自分の寿命がどんどん縮まっていく気さえする。  それくらい、ひどいのだ。  ユーリは耳を塞《ふさ》ぎたくなるのを我慢しながら、馬で一定の距離を保ち、歌い手の後をつけていた。  その男——この国の上将軍《じょうしょうぐん》であるところのレインは、ザーマインでは「知られざる天才」と呼ばれている。  まあ今は結構有名なので、そう呼ぶ者は少なくなってはいる。にしても、彼が他国で高く評価されていることは間違いない。武名《ぶめい》が天下に轟《とどろ》いているのだ。  実際ユーリも、この目で見るまでは大変緊張していたぐらいだ。もはや、そんな気持ちは欠片《かけら》も残っていないが。  こんなの、もうさっさと放って帰りたい——そう思うのだけれど、宰相《さいしょう》の命令ともなればそうもいかないのだった。  はあっ、とユーリはため息を吐《つ》く。とにかくなにがあろうと、当分は嫌でもこの男についていくしかない。  ユーリの気持ちなどにはまるで頓着《とんちゃく》せず、やけに毛並みのよい白馬に跨《またが》ったレインは、われ鐘《かね》のような声で歌を歌い続ける。  周りは商店が建ち並ぶ王都の中心街だというのに、気にする様子はまるでない。大通りを歩く人々の失笑など、完璧に無視しきっている。ある意味では大物かもしれない。  ただし、ユーリは一ミリも関わり合いになりたくないが。  今も、道行く人に間違っても知り合いだと思われないよう、可能な限りレインと距離をとっている。あんなの他人ですから。  と……レインがいきなり殺人的な歌を中止し、何事か呟《つぶや》いた。ユーリが必死で耳をすませたところによると、 「どうだ、腹は減ってないか、クリス?」  と言っているようだ。  うんざりして天を仰いだ。  散々同じことを聞かされたので、もう、「クリスって誰よ? 誰も居ないじゃん!」などと文句をつけたりしない。  ここまでの道中で、クリスとは彼が跨《またが》っている馬のことだとわかった。つまりあのレインは、いい歳をして馬と話し込む趣味があるらしい。  難儀《なんぎ》な奴である。  なんであたしが、こんな「使えない噂倒れの奴」を尾行しなきゃいけないのだろう……  いくら話しかけても無駄なのに、レインはしつこく馬に話しかけている。と、偶然に決まっているが、馬が軽く首を振った。  途端に、満足そうに頷《うなず》くレイン。 「そうかそうか、メシは後でいいのかクリス」  何事もなかったように、また殺人的な歌を歌い始めた。  ユーリは思わず、小声で呪い文句を吐いた。こんなに任務が疎《うと》ましく思えたのは、初めての経験である。  歌だけの問題ではない。  だいたいレインは上将軍《じょうしょうぐん》という要職《ようしょく》にあるくせに、そこらの田舎者のごとく、やたらとあちこちの店を覗きまくるのだ。どうも店員が女性(それも美人の)であればあるほど、興味を示すようだ。  必ず、一言二言話しかけるまで動かない。  女たらしの頭の弱い馬鹿ね、こいつっ。  ユーリのレインに対する評価は、だだ下がりに下がる一方であり、もはや回復の見込みは有り得なかった。  と、急にレインがとある酒場の角を、ひょいと曲がった。  まぁたそういう気まぐれを起こすっ。  ユーリは距離を詰め、急いで自分もその路地を曲がった。 「——! ああっ」  危うくレインにぶつかるところだった。  とうに先を進んでいるはずの彼は、馬を降りて酒場の壁にもたれている。そしてユーリを見るなり、お気楽に片手を上げて見せた。 「よう! ちょっと話さないか」  しまった! まさか尾行が……ううん、まだなんとかなるわっ。こいつ、馬鹿だし。  目まぐるしく顔色を変えた後、ユーリは表情を調節し、大急ぎでうぶな少女のそれに変えた。大きく目を見開いて、 「えっ。誰かとお間違えでは、騎士様?」 「間違い……ねえ」  レインはじろじろとユーリを観察し、わざとらしく肩をすくめた。 「ま、間違いでもいいさ。ちょっと馬を降りてくれないか。話がしたい」  わずかに迷ったが、ここで怪しまれてはいけない。結局、渋々と馬を降りた。 「それで、なにか?」 「いやなに。おまえが『偶然』にも、俺を城からずうっとつけてくる理由が聞きたくてな」  偶然、の部分に力を入れて話すレイン。  ユーリはぐっと詰まった。ただの抜け作だと思っていたのに、相手はなんとガルフォート城からこっち、ずっと尾行に気付いていたらしい。それでは偶然で片づけるのは無理がある。  や、ヤバいかも……ユーリは汗ジトで、次なるごまかしを模索《もさく》した。 「え、えーと……こうなったら正直に申し上げますけど、あたし、実は一目見て騎士様に心を奪われまして、フラフラと後をお慕《した》いしていたんですの」  歯が浮くのを我慢して、ユーリは一気に捲《まく》し立てる。レインが、ほおっ、俺に一目惚《ひとめぼ》れねえと言って笑った。ユーリもお追従《ついしょう》でえへへへ、と笑った。  ひとしきり二人で笑った後、ぴたりとレインが笑い止み、断言した。 「嘘つけ、こらっ」 「ええっ。本当ですよおっ。その真っ黒な格好がなんともはや」 「まだ言うか、こいつは。いいか、確かに俺はかっこいい」  自意識過剰《じいしきかじょう》の馬鹿、とすかさずユーリは内心で評価に加えた。 「だからといってなあ、そんな見え透いた言い訳は納得できないねっ」 「え〜、ほんとですってばっ。私はあなた様にすっかり……」  パッとレインが片手を上げ、ユーリは口を閉ざした。わざとらしいため息を吐《つ》いた後、レインはいきなり核心をついた。 「あくまでシラを切るなら、しょうがないから俺が言ってやろう。おまえの正体は、ザーマインの間諜《かんちょう》だろう? 正直に認めろよ」  バレてるっ!  そう思った瞬間、ユーリはスカートの後ろに隠した短剣に手を伸ばし、後方へ跳躍《ちょうやく》しようとした。逃げ足の速さなら自信があるし、仮に戦いになったとしても、そこらの並の騎士よりは遙《はる》かに戦えるつもりだ。ザーマインで受けた訓練は伊達《だて》ではない。  とにかくユーリは、今の今までそう思っていた。  ——だが、あいにく跳躍《ちょうやく》するどころではなかった。  微《かす》かな剣風と共に、黒影が残像を生じつつ動く。  光の軌跡《きせき》が鮮やかに半円を描き、青き光芒《こうぼう》がユーリの視界をふさぐ。  気がついたら、動けなくなっていた。  手を腰の方へ伸ばすか伸ばさないかのうちに、抜く手も見えない速さで、喉元に剣を突きつけられていたのである。  それもただの長剣ではない。光り輝く魔力のオーラを放つ、魔法剣……魔剣である。  その刀身には、うねるように青白い光が乱舞《らんぶ》し、ブゥゥゥゥゥゥンという多数の羽虫が立てるような音が聞こえる。  物凄くよく切れそうだった。とにかく自分の身体で試すのは絶対に嫌だ。  ゴクリ、とユーリの喉が鳴った。 「う、嘘っ。なんて速いの」 「当然だ、俺は天才だぜ」  片手でえらそうに髪をかきあげるレイン。無性にむかつくが、今は反論できない。  加えてクリスとかいう名の駄馬《だば》が、こっちを馬鹿にしたように見るのも腹が立つ。  まあ、これは偶然だろうが。 「な、なんで……」 「なんでバレたかって? そりゃおまえ、俺は人の気配には敏感だから尾行なんて通じないし、それにおまえの足の運びは、普通の娘とは思えないしな」 「ううっ」 「ふっ。まあこの俺の目を誤魔化《ごまか》すには、二十年早かったってことだ」  言いたい放題である。ユーリは殴ってやりたくなったが、今はそんなどころではない上に、命を無くすおそれすらあった。  間諜《かんちょう》というのはどこの国でも嫌われ者なのだ。捕まればまず死刑だ。それどころか、たいがいは見つかったその場で斬り殺されることになる。つまり、非常にヤバイ。  大変だっ。あたしが死んだら、妹の面倒は誰がみるのっ。なんとかならないかしら、なんとか!  助けてって頼めば……ああっ、でもでも、代わりに抱かせろとか言われたらどうしよう。こいつ、頭が弱くてスケベそうだし。  ユーリが悶々《もんもん》としていると、レインがのんびりとした口調で問うた。 「それで。おまえ、名前は?」 「……ユーリです」 「ユーリか。まあまあかな。ちょっと雰囲気がきつそうなのがアレだが」  大きなお世話だっ、とユーリが思っていると、レインは続けて年齢も尋ねてきた。  今更隠しても仕方ないので、十六歳、と魔剣から目を離さずに答える。レインは顎《あご》を撫《な》でつつ、残念だが守備範囲外だなあ、などとぬかした。心配せずとも、ユーリだってお断りである。 「まあ、今度からもうちょい短めのスカートをはくようにな。股下スレスレのヤツをな」  あっさりとレインが魔剣を鞘《さや》に収めた。  ユーリがポカンとしていると、鼻歌を歌いながら自分の馬の方を向く。 「クリス、もう少しでメシにするからな」 「……ちょっと」 「そうだ、なんなら町外れの宿屋でぱーっといくか、クリス」 「……あのさあ」 「そうかっ。おまえも賛成か。よしよし、腹一杯食わせてやるからなっ」  ユーリは大きく息を吸い込み、全力で怒鳴った。 「こらあぁぁっ! 馬と話してないで、あたしの話を聞けえっ!」 「おおっ」  ぎょっとしたようにレインが振り向く。  黒瞳《くろめ》が大きく見開かれていた。 「おまえなあ、急にでっかい声だすなよ。俺は美声を好むんだぞ」 「なにが美声よっ。あ、あんたねえっ、人がいつ斬られるかと身が細る思いで震えているのに、呑気に馬と話してんじゃないわよっ」 「いつ震えてたんだよ、いつ。しぶとく逃げるチャンスを窺《うかが》っていたくせに。俺から逃げようなんて五十年早いってのに」  憎たらしい口調でレインが言い返す。  さりげなく、さっきより三十年増えているのが腹立たしい。 「だいたい、顔も近くで見られたしもう用はすんだんだから、とっととどっか行けばいいだろう。しっしっ」  蠅でも追うように、ヒラヒラと手を振る。  間近で顔を見るために足止めしたのか、あんたはっ。ユーリはまた怒鳴り返そうとして、はっと口に手をやった。 「え……ひょっとして、逃がしてくれるの」 「おまえを殺したってしょうがないじゃないか。次に別の奴が来るだけの話だろう? それこそ、斬るだけ無駄だ」 「そ、それはそうだけど……逃がしてくれるんだ」  こいつ、思ったよりいい奴かも。  ユーリは大いにレインを見直した。普通は絶対に殺されるし、そうでなくても役人に突き出されて、やっぱり殺される。  全然顔とか見ていなかったが、ところどころ跳《は》ねた漆黒《しっこく》の髪に、彫《ほ》りの深い精悍《せいかん》な顔立ちをしている。特に黒瞳《くろめ》がやたらと印象深い。森林狼《しんりんおおかみ》もかくやというほど鋭いのだ。  うん、ハンサムかも——て、それどころじゃないわっ。  肝心《かんじん》な点を思い出し、ユーリはまたどっと暗くなった。  命が助かったのはよかったが、レインを尾行するという任務は失敗したのだ。これはこれでまずい。下手をするとザーマインに戻ってから、なにか罰を受けるかもしれない。首になることもあり得る。 「どうした? また暗そうな顔して」  レインが馬上から訊《き》いてきた。  ほっといてと言う代わりに、ユーリはボソボソと事情を話した。一応は命の恩人だし、それに、話さずにはいられなかったのだ。  と、レインは話を聞いた後、 「なら、俺と一緒に来ればいいだろう」  驚いたユーリは、ぱっと顔を上げた。 「だから、任務があるんだろう? 俺と一緒に来れば問題ないじゃないか」 「えっ、えっ。だってあたし、情報収集が目的だよ? 一緒にいたら、あなただって困るでしょう?」  ユーリが目を丸くして言うと、レインはフッと気障《きざ》に笑った。 「別について来られたって俺はなんにも困らないね。だって俺、謹慎《きんしん》になって領地に帰るとこだし」 「……はい?」 「だからっ、謹慎《きんしん》なんだよ、きんしんっ」  嬉しそうに教えてくれるレイン。 「兵を率《ひき》いずに一人で登城してだ、『戦っても勝てないからやめましょうや?』とか進言したら、めでたくそうなったのさ。これから自分の城に帰って寝るんだって」  どこまでも爽《さわ》やかに笑うレインを、ユーリは信じられない思いで見つめた。名誉を重んじる騎士が、ヘラヘラしながらのたまうセリフではない。 「い、行きも帰りも一人だから、おかしいなと思ってたら……」  頭が痛くなってきた。  やっぱりこいつ、ただの馬鹿だわっ。 「で、ユーリ。どうすんだよ、俺について来るのか?」  レインの声が遠くから聞こえる。  一人で帰れっ、と返してやれないのがつらいところだ。あいにくユーリに選ぶ権利などないのだ。 「ううっ、一緒に行きます……」  半泣きになってユーリは答える。  絶対に偶然に決まっているが、クリスがユーリをあざ笑うかのように嘶《いなな》いた。   ——☆——☆——☆——  凍《い》てついた空気の中に、木々のむっとする匂いが微《かす》かに混じり始めている。  レインの領するアステル地方へは、王都から馬の足で三日かかった。  要するに、まごうことなき田舎である。というか、ド田舎。  それでも、貴族でもない平民が領地持ちの上将軍《じょうしょうぐん》というのは、この国ではレインだけである。ダグラス王は身分にはすこぶるやかましいからだ。  辺りは枝の長い南部杉が生い茂る、ちょっとした森だった。アステル地方はほとんど、なにもない平原か、こんな森ばかりだ。  その中にポツポツと、村や町が点在している。まさに田舎以外の何ものでもない。 「もうすぐ俺の城に着くが、わかってんな? おまえは騎士見習いってことになってんだから、みんなの前で俺とタメ口きいたりするなよ。ボロはだすな」 「そりゃまあ、うん」  誰が見ても気が進まなそうに、ユーリは頷《うなず》いた。  打ち合わせで、レインとユーリは父親同士が知り合いだということにしたのだ。つまりユーリは、騎士になるべくレインに預けられた……という設定だ。  女性の騎士も数は少ないながらちゃんといるので、これはそんなにおかしい話ではない。現に、レインの二人の副官のうちの一人は、確か女性である。 「なんだ、そのふてくされた顔は。おまえのために言ってんだぞ。誰もいないとこならタメ口でもいいって言ってるんだし、感謝してほしいくらいだ」 「そりゃ感謝するけどぉ……あたし、敬語って苦手なのよね」 「しょうがないだろう? おまえが俺と離れたくないってきかないんだから」 「うっ。い、嫌な言い方しないでよっ」 「だが事実だろ」  涼しい顔でレイン。  眉間にしわを寄せて黙り込んだユーリを見てにんまりしたが、急にふっと渋い表情になった。 「どうしたのよ?」 「いや、ロクでもないことを思い出した」 「だから、なに?」 「セノアだよ、俺の副官っ。よく考えたらあいつ、俺が謹慎《きんしん》だって聞いたらまたうるさいだろうなってな」 「セノアって……確か、五家の一角を占《し》める、有力貴族の娘だったわね。二十歳くらいだっけ」  ユーリが小首を傾《かし》げると、レインは、さすがによく調べてあるなあと、妙なところで感心した。 「まあ、それが仕事だから。それで、そんなにうるさいの、その人」 「そりゃもう、やかましいのなんのって。美人でスタイルも抜群《ばつぐん》なんだが、その美点を帳消《ちょうけ》しにしてあまりあるな。ったく、半年前に俺を訪ねてきたときは、拾い物だとおもったんだがなあ」 「あんた、言葉の使い方、変よ……」 「いいだろ、別に。それより、もうすぐ城が見えるぞ。ここを抜ければほら!」  丁度、森が切れて、視界がぱあっと開けるところだった。ユーリが目を凝《こ》らし、レインが前方を指さす。  ……だが、その差した指が固まった。  ユーリもまた、口をポカンと開ける。 「どうなってんだっ」 「どうなってるのっ」  二人の声がきれいに重なった。   ——☆——☆——☆——  コートクレアス城は、レインが城主を務める城で、小さいながらも周りを深い堀が囲っており、城壁も高く、防御力はなかなかのものである。  いくつかの尖塔《せんとう》が立ち、それらの塔と外壁は、見栄えのいい白い色が塗られている。  城門は跳ね橋がついていて、今その橋は下ろされていた。  それはいい。  問題は、城門前の広場にあった。  そこは、駐留する騎士や歩兵を合わせた二千の兵が、勢揃い出来る広さである。  いざ戦《いくさ》ともなれば、この場所で隊伍《たいご》を整えてから出陣するのだ。  その広場に、ぎっちりと兵が集っていた。歩兵から騎士見習い、そして騎士まで、およそこの城の全兵力に当たる人数だ。  その全員が、鎧《よろい》などをきっちりと纏《まと》い、槍《やり》や剣で厳重に武装していた。まるで、すぐにも出撃しそうである。  しかも、これでもまだ足りないのだというように、城内から武器や糧食《りょうしょく》を満載した荷車がどしどしと広場に持ち出されている。  不思議なのは、みな黙々と作業を続けながらも、どこか疲れた態度でいることだ。 「だましたわねっ」  いきなりユーリがキンキン声で喚《わめ》いた。  レインはギギィと音がしそうなほど、ぎこちなく首をまわした。 「あれはなにっ、出撃の準備じゃないっ。なーにが謹慎《きんしん》よっ、嘘ばっかついてっ。あんた最初から適当なこと言って、どっかに閉じこめてあたしをもてあそぼうとこんな」 「やかましいっ、愉快なエロ話をつくってんじゃない!」  レインはたまらず、ユーリを遮《さえぎ》った。 「おまえ一人を押し倒すのに、誰がそんなめんどくさい嘘なんかつくかっ。頭を冷やせ、馬鹿っ。俺だってなにがなんだかさっぱりなんだよっ。焦ってる真っ最中なんだっ。わかったか!」  わからなかったらしく、即座に大声で喚《わめ》き返された。  付き合っていられないので、レインはわざとらしく両手で耳を塞《ふさ》ぎ、足で合図してクリスを進ませた。  とにかく、この原因を問いたださなければならない。  大急ぎで広場に近づいていくと、レインの姿を見つけたのか、集団の中から鎧《よろい》を纏《まと》った男が一人、カシャカシャと音をさせながらこちらへと駆けてきた。  短めの金髪に青い瞳……ただしその瞳は貴族のそれと違い、白目の部分はちゃんと白くなっている。顔立ちは整っているが表情がどこか幼く、なんとなく頼りない感じである。  レインのもう一人の副官、レニだ。本当はレルバイニが本名なのだが、レインは面倒くさいので縮めてレニと呼んでいる。なお、副官二人は、いずれも千人隊長である。  ともあれそのレニが、もうそろそろ寒い季節だと言うのに、額の汗を手で振り払いつつ走ってくる。目がキョトキョトと落ち着かないのが、非常に怪しい。 「おい、レニ! どうなってる? ひょっとしてザーマインか。奴らがそこまで来てるってことか、おいっ」  慌《あわ》ただしくレインが問いただすと、レニはなぜかレインの顔を見ないようにしながら、つらつらと言い訳を始めた。 「自分はですね、やめとこうって言ったんですよ。それは気が早いだろうって」 「……は? なに言ってんだ、おまえ」 「い、いや。だからですね、自分はちゃんと止めたんですよ。こういうことは、将軍が帰ってからのことだって」  さっぱりわからない。  いらだったレインはクリスから降りると、レニの肩を掴《つか》んで揺さぶりまくった。 「こらっ。おれにわかるように話せよっ」 「いやっ! ですからあ、自分は悪くないんだってことさえご理解くだされば……あっ」  しどろもどろなレニは、しかし、カポカポと馬を進めてやってきたユーリを見つけて、あっさりと注意がそちらへ飛んだ。 「将軍っ。そのかわいらしい女性はどなたですか?」 「こら、今は俺の質問が先」 「あらあ。かわいいなんてそんな……」  ぶりっこ風に頬を両手で挟んだユーリが、レインを無視して照れて見せた。どうやら誤解は解けたらしく、もう機嫌は直っている。 「あたし、父さんの紹介でレイン将軍の元で修行しろって言われたんですよ。ユーリって言います。よろしくぅ〜」  とろけそうな声音《こわね》で愛嬌《あいきょう》を振りまくユーリを、レインは苦々しく遮《さえぎ》った。 「こらこらっ。手を振るな、手をっ。ってレニ! おまえもでれっとしてんじゃないっ。さっさと事情を説明しろって!」  だがレニはあまり頼りになりそうもなかった。笑顔のユーリにデレデレし、すっかりグニャグニャになっている。なら他の奴に聞くか……とレインがあきらめて広場の方へ視線を投げると、丁度その集団が二つに割れ、なにか面妖《めんよう》な物がヨロヨロとよろめき出てきた。  それは一言で言うと、鎧《よろい》の固まりだった。  白銀に光る重装備の鎧《よろい》で、足下から頭の先まで固めている。ただ、あまり体力がないのか重い鎧《よろい》を扱いかね、足下が実におぼつかない。あれではいざ戦いになれば、真っ先に敵の槍《やり》のいい餌食《えじき》になることだろう。  どこの阿呆《あほう》だか知りたかったが、あいにく顔は鎧《よろい》のガードで覆《おお》われており、誰なのかはわからない。  謎の騎士はあっちへフラフラ、こっちへフラフラして針路修正しつつ、少しずつレインの方へとやって来る。はっきり言って不気味だった。 「あの馬鹿たれは誰だ、レニ」 「え、あれはですねえ——」 「いや、ちょっと待てっ。やっぱり聞きたくないっ。あいつの正体なんて俺は聞きたくないぞっ」  いきなり天恵《てんけい》のように正体がわかったレインは、いやいやをするように首を振った。そんなことをしてもどうにもならないのはわかっていたが。  案の定、レニが気の毒そうに言ってくれた。 「そうおっしゃるのなら、無理にはお教えしませんが。でもいずれにせよ、すぐにわかっちゃいますよ」 「ううっ。そうだよなあ」  重いため息を漏らしているうちにも、相手は酔っぱらいのような歩みでレイン達に近づき、とうとう大きく肩を揺らしながら彼の前に立った。  晩秋の虫のような、実にか細い声を出す。 「はあはあ……将軍……お帰りを、今か今かと……はあはあ……お待ち申し上げて」 「息が上がって苦しいんだろ、ヘルムを取れ、ヘルムをっ。うっとうしい」  長口上《ながこうじょう》を遮《さえぎ》ると、相手はプハアッというような息の音とともに、ヘルムをゴソゴソと取り去った。  ウエーブのかかった金髪と、貴族特有のグラデーションのような碧眼《へきがん》がその下から現れた。汗で濡れた白い肌が光り、切れ長の美しい瞳がどこか期待をたたえてレインを見据《みす》える。  意外にも、目の覚めるような美女である。 「はあはあ……とにかく、よくぞ戻られました、将軍」 「ああ。おまえも相変わらずだな、セノア」  レインはうんざりして、自分のもう一人の副官を見下ろした。 「で、もう呼吸は元に戻ったか」 「はっ。この程度、なにほどのこともありません」 「あ、そう……そりゃ良かった」 「お気遣いは無用です。ところで将軍」  とセノアは堅苦しい表情で、レインの後ろに立つユーリを見つめた。 「こちらの女性《にょしょう》は?」 「え、ああ……こいつはユーリと言うんだ。こいつの親父さんから頼まれてな、今日から騎士見習いとして面倒を見ることになった」  適当に紹介してから、お互いの親父同士が知り合いなんだ、と付け加える。  嬉しそうに頷《うなず》いたのはレニだけで、セノアは堅苦しい表情を崩さなかった。 「そうですか……。ユーリとやら、私の名は、セノア・アメリア・エスターハートと言う。真ん中のアメリアは母の名ではなく、幼名《ようめい》だ。呼ぶときは、隊長でいい」  ぶっきらぼうに貴族特有の長ったらしい名前を名乗るセノアは、レインの目から見ても憎たらしく映る。  ユーリも同じ気分だったのか、非友好的な声と態度で、どーぞよろしくと返した。女性二人の瞳の間で、密かに火花が散ったような気がしたりも。 「おいおい、いきなり緊迫してんじゃない。それよりセノア、説明してくれるよな」 「は? 説明……と言われますと?」 「本気でわからない顔するし……だからっ、今にも戦《いくさ》をおっぱじめようかという、この状態の説明だよっ」  怒りに任せてレインがブワッと腕を振り、広場でギュウギュウ詰めになっている味方連中を示した。  首を傾《かし》げていたセノアは、ああそのことですかなどと言い、ちょっと得意げに小鼻を膨《ふく》らませた。白い頬がさっと紅潮《こうちょう》した。 「無論っ、将軍が帰られたらすかさず進撃に移るべく、私が用意しておいたからですっ」  レインはむっつりと、得意満面のセノアの美人顔を見つめた。  そして一言。 「馬鹿か、おまえは」 「——ななっ」 「ななっ、じゃないっ。誰が勝手にそんなことしろって言ったんだっ。余計なことはせんでいいっ」  仰《の》け反《ぞ》るセノアに、なおもレインはたたみかける。 「だいたいおまえ、城のありったけの兵力をかき集めてどうすんだよっ。ちょっとは留守部隊として残しとかんと駄目だろっ。それくらいわからんのかっ」 「し、しかし……」 「しかしもかかしもないっ。すぐにあの集団を城内に戻せっ」 「まあまあ、将軍」  両手で押さえるようにしながら、レニがレインをなだめる。そんなレニに、レインはしんねりと宣告した。 「……レニ。おまえ、監督不行届で来月の俸給《ほうきゅう》は半分引いとくからな」 「ちょっ! そんな殺生《せっしょう》なっ。自分はちゃんと止めたんですって!」  たちまち泣き声を上げるレニ。  レインはもう事は終わりとばかりに歩き出しながら、 「まあ、それは勘弁してやる。その代わり、ギュンターに早急に連絡を取れ。あいつに話がある」 「た、直ちに即刻連絡しますっ」  レニはほっと胸を撫《な》で下ろした。  クリスと歩くレインの後をユーリが小走りに追い、レニはどこかへ行こうと踵《きびす》を返す。  一見、事は済んだかに見えた。  だが、なかなかそうはいかないのだった。 「お待ちください!」  セノアが大声を出した。 「なんだよ。俺、部屋で寝たいんだが」 「出過ぎた真似だったのは認めますが」  振り向いたレインの愚痴《ぐち》を聞かず、セノアが言った。 「どうせすぐにザーマインに遠征《えんせい》に向かうのでしょう? ならば、軍を今解散するのはいかがなものかと」  うっ、来たぞ。  レインはやれやれと首を振った。  セノアが副官である以上、まさか謹慎《きんしん》の事実を黙っている訳にもいかない。第一、黙っていても、すぐにばれることだ。  しょうがないので、レインはなるべく軽い口調で説明することにした。どうせ付き合いの古いレニはいつものことだと気にしないだろうから、セノアだけである、問題は。 「……あ〜、それだけどなぁ。なんか俺が、軍議《ぐんぎ》で不戦を唱《とな》えたら、陛下が怒っちゃってな。なんと、謹慎《きんしん》だとよ、ははっ。まいったねー。はっは!」  事情をとことん簡単にして説明し、寒い笑いを浮かべて頭をかく。  そんなレインを、セノアは凍りついたようなデスマスク顔で見返した。 「……なんですと?」  声音《こわね》がおそろしくトーンダウンしていた。 「だから、謹慎《きんしん》だよ、きんしんっ。おまえは城で反省でもしてろとさ。ま、そういうわけだから、俺は部屋へ戻るっ」  セノアの様子を見てさすがにヤバいと感じ、レインはさっさと身を翻《ひるがえ》した。要するに逃げたのだが、何歩も行かない内に、背後で血も凍るような悲鳴が湧《わ》き起こった。  言うまでもなく、セノアである。  ぎょっとして振り向くと、セノアは両手で頭を抱え、身を振り絞るようにして叫んでいる。気でも狂ったのか、と思わせるほどの金切り声だ。  ひぎゃあああああああああああ——なんて声の叫びが、辺りに満ち満ちた。 「お、おいおい……」  さすがのレインも驚きを禁じ得ない。というか、めちゃくちゃ不気味だ。  ユーリと、まだそこらにいたレニが、そばに寄って来た。 「将軍、ちょっと、いつもより激しくないですか」 「え、あの人、いつもああやって喚《わめ》くんですか、レニ隊長」 「まあね。でも、普段はもう少しマシなんだけどね」 「なんて言うか……個性的な人ですね」  全く、とレニが頷《うなず》き、そこで二人そろってレインに目をやる。 「な、なんだよ。俺は悪くないぞ」  見苦しい言い訳をレインがした途端、ぷっつりと悲鳴が止んだ。  一同は、固唾《かたず》を呑んでセノアを見守った。  セノアは両足の間に腰を落とし、放心したようにその場にへたりこんでいた。  と、幾ばくもなく彼女の口から、不気味な笑い声が漏れ始めた。そして笑いつつ、なぜか身に纏《まと》った鎧《よろい》のパーツを次々と外す。つまり、鎧《よろい》を脱ぎだした。 「な、なんかなんか危ない雰囲気ですよ、将軍っ。早めに謝った方がいいんじゃないですか……」  ゴクリとレニの喉が鳴る。  ユーリは反対に、おもしろそうにセノアを観察していた。 「むっ。ほんとに今回はヤバそうだよなあ。なあレニ、おまえ、ちょっと行って謝って来いよ」 「ご冗談を! 自分にそんな度胸はありませんて」 「そうだよな。じゃあユーリ、おまえが行け」 「ばっ! あたしだって嫌よっ……じゃなくて、嫌ですよっ。死んだおばあちゃんの遺言《ゆいごん》で、危ないことには首を突っ込むなって言われてるんですから!」 「おまえな、なにがばあちゃんの遺言《ゆいごん》なんだよっ。自分を省《かえり》みてから物を言え、こらっ」  レニがチラチラとセノアを見つつ、 「将軍こそ、常日頃《つねひごろ》から俺には怖い物がないって言ってるじゃないですか。ここは将軍が行くべきでしょう」 「怖い物はなくても、苦手な物はあるんだっ。例えば口やかましい女だろ、それから家事のできない女、最後に、笑いながらいきなり鎧《よろい》を脱ぎ出す女だ!」 「……どうでもいいですけど、女性ばかりなんですね、将軍は」 「だからおまえが行けっ」  おまえが、いやそちらこそ、などと押しつけあっている間に、セノアは着々と鎧《よろい》のパーツを外していき、ついに全部脱ぎ終えると、パタリと笑い止んだ。  ついで、剣を手にゆっくりと立ち上がる。  手が柄《つか》にかかり、すらりと長剣が抜かれた。固唾《かたず》を呑んで事態を見守っていた、広場の部下達がどよめく。 「おおっ! 副官殿が切れたぞおっ」 「ちょっちょっ!」  レニがギクリと身体を強《こわ》ばらせた。 「これはちょっとヤバイですよ、将軍っ」  すっかり腰が引けたレニは、震える声でそう言うと、わたわたと後ずさりし始めた。 「じ、自分は関係ないですよね、ね、そうですよね、セノアさん」 「レニ、おまえな……」  なんて薄情な部下だ! なあ、そう思うだろ、とばかりにレインが横を見ると、既にユーリはダッシュで安全|圏《けん》に逃げた後だった。離れた場所から、わくわくした表情でこちらに目を向けている。 「こんな奴らばっかりか、俺の周りは……」  嘆いているうちに、抜き身の剣を手にジリジリとセノアが歩み寄ってきた。目つきが非常に危ない。 「将軍……」 「な、なんだよ」 「私は、ほとほと愛想が尽き果てました。上将軍《じょうしょうぐん》ともあろう方が、よもや不戦を唱《とな》え、おめおめと謹慎《きんしん》になどなるとは!」 「いや、俺には俺の考えがあってだな」 「しかし将軍の恥は、副官たる私の恥」  まるっきり聞いていない。 「この上は潔《いさぎよ》く、二人で責任を取りましょう」  これはどうも本気みたいだ。  まあ俺が悪いんだが……まいったなあ。幾らなんでも、死んでやる訳にもいかんし。  ゆっくりと剣を振り上げたセノアに、今更ながらレインはそう思った。さっさと逃げ出したいが、プライドが邪魔してそうもいかない。  とりあえず、フレンドリーな態度でなだめることにする。 「まあ落ち着け、セノア。いっとくが、ザーマインとの本格的な戦いはこれからなんだ。その新たなる戦いに備えて、今は静かに闘志を燃やし——って、ぜんっぜんっ、聞いてないっ」 「お覚悟っ!」  裂帛《れっぱく》の叫びと共に力任せに剣が振り下ろされ、きわどいところでレインの身体をかする。  ガシッと剣先が土を噛《か》んだ。 「あっ、危ないな、おいっ。当たったらどうすんだよ! さすがにシャレにならんだろうがっ」 「将軍……」  セノアは茫洋《ぼうよう》とした瞳で、再び剣を振りかぶった。 「冥界《めいかい》への道すがら、今日の非礼は十分にお詫びいたします。潔《いさぎよ》く私と一緒に、いざ!」 「ううっ、やっぱり聞いてないし。いざ、じゃないっての」  セノアは完全に自分の世界に入り込んでいた。レインの説得など、聞こえているかどうかも怪しいものである。  しょうがないなあ。  レインは仕方なく、自分の剣の柄に手をかけた。 「今度こそお覚悟おっ」 「ああもうっ、しょうがないなあ」  セノアが再度剣を振り下ろす。  途端に——  雷光の速さで魔剣が青い軌跡《きせき》を空に描き、セノアの剣をあっさりと弾き返した。  飛ばされた剣は銀の照り返しを見せつつ、クルクルと回転しながら驚くほど遠くまで飛んでいき、遙《はる》か先の地面にグサリと刺さる。 「あっ」  セノアはポカンとそれを見届けた。 「ふっ」  意味もなく髪をかきあげながら、レインは気取った仕草で剣を収めた。 「昨日今日、剣を握ったばかりの初心者に、天才の俺が斬れるもんか! ……おいどうした? また惚《ほう》けちまったのか?」  口を半開きにし、泣きそうな顔でセノアは突っ立っていた。なにか魂を抜かれてしまったような感じだ。 「おい、もしもし? 正気だろうな?」 「……て、ください」 「はい? なんだって?」  訳が分からず、耳を寄せると、セノアはいきなりレインの胸ぐらを、むんずとばかりに掴《つか》んだ。 「責任を取ってくださいいっ」 「わっ。おいっ離せ、落ち着けっ」 「今回が私の初陣《ういじん》になるはずだったのに、それなのに、それなのにいぃーーー」  耳元で、大音量でセノアが喚《わめ》く。  レインはガクガクと揺さぶられながら、遠くでユーリの爆笑する声を確かに聞いた。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_069.jpg)入る]  第二章 ラルファスの戦い  夜半《やはん》に降っていた小雨は、昼前になってようやく上がった。大変有り難い。なにしろ冬も近く、濡れて凍えるのはさすがに遠慮したいからだ。  ラルファスは馬上から自分の部隊を眺め、微《かす》かに首を振った。  行軍《こうぐん》中だから不思議はないが、みんな口数が少ない。しかし、それにしても、静かすぎるように思う。  街道を馬でゆく部下達は、ほとんどが俯《うつむ》いていて、まるで先の見えない不安に押しつぶされそうになっているようだ。  無理もない……戦う相手は大国ザーマインなのだから。勝てそうもない戦を喜ぶ者は少ないだろう。いかに名誉を重んじる騎士とはいえ、戦うからには生きて戻りたいと思う。その反対を望む者など、まずいない。  全員の命を預かるラルファスの胸は、重く塞《ふさ》がっていた。  ここは、半年前にザーマインによって滅ぼされた旧ルナンの地……人里離れた森を通る、細い街道である。  ラルファスは王に従って何日も前に国境を突破したのだが、今は自分の部隊だけで進軍していた。  理由は簡単、王に置き去りにされたのである。  今朝、目が覚めてみると、あきれたことにダグラス王を初め、各|上将軍《じょうしょうぐん》仲間達の部隊はとっくに先へ行ってしまった後だった。  どうもラルファスは、王に相当な不興《ふきょう》を買っているらしい。おそらく、レインをかばったのが原因だろう。  野営する折《おり》、自分達だけ遠くへ離されたからおかしいとは思ったが、よもや敵国のまっただ中で置き去りにされるとは思わなかった。  自分のやった行いを後悔するつもりはさらさらないラルファスではあるが、王の度量《どりょう》の狭さには、失望を通り越して絶望を覚える。  たかが意趣返《いしゅがえ》しのためにそんなことをする神経が信じられない。もし、不意に戦いになったとしたら、自分が抜けた分だけ不利になるというのに。  ……やめよう。考えても仕方がない。私は私なりに全力を尽くせばよい。  ラルファスはそう思うことにし、周りの部隊に大声で呼びかけた。  急いで王に追いつかねばならないのだが、それでも休憩《きゅうけい》は必要である。 「よしっ、全員この場で休憩《きゅうけい》だ! 軽い物であれば、飲食も許可するぞ」  やや元気を取り戻した返事がそこかしこから聞こえ、みんな馬を降りて、思い思いに休憩《きゅうけい》を取りだした。  その様子を高みから眺めるラルファスに、背後から大声。 「大将! なにしてんです? 休める時には休みましょうぜ!」  縦も長いが横も大きい巨漢《きょかん》が、ラルファスに馬を並べて来た。  髭《ひげ》だらけの、山賊《さんぞく》のごとき迫力のある顔。野太い声に、固そうなモジャモジャの黒髪。  ラルファスが十五歳で初めて戦場に出た頃からの副官、グエンである。年齢はもう三十代も半ばだ。 「いや、私は……」 「さあ、向こうで一緒に休みやしょう。俺も付き合いやすぜっ」 「——わかった、グエン」  ラルファスは苦笑して馬を降りた。  グエンは気はいいが頑固者《がんこもの》で、こうと思いこんだらなかなか引き下がらない。付き合った方が利口というものだ。  それと、なぜかグエンはラルファスのことを大将と呼び、もう十年以上もその呼び方が続いている。訂正してやると、しばらくは『将軍』とちゃんと呼ぶようになるのだが、またすぐ大将に戻ってしまう。ラルファスはとうに、まあ大将でもいいか、という気持ちになっていた。  グエンには、悪意は微塵《みじん》もないのだから。  二人して、他の者とは少し離れた木の幹に背中を預けて座り込んだ。 「ちっ。地面が湿ってやがる。尻が濡れちまわあ」  グエンは顔をしかめてぼやいた。 「そう感じるのは生きていればこそだよ」  つい本音を洩《も》らしてしまったラルファスである。しまったと思った時には、グエンがすかさず聞き返してきていた。 「やっぱり、今回は大将も危ないと思いやすかい? 相手が悪すぎますしね」 「いや——」  とぼけようとしたが、ラルファスは思い直した。グエンにまで隠しても仕方ない。 「そうだな。ザーマインが強大に過《す》ぎるのは否定できないな」 「そうッスねえ。こっちはかき集められるだけ集めて一万五千ばかしなのに、向こうさんは、遠征《えんせい》軍だけで四万から五万はいるんでやしょう?」 「ああ、密偵《みってい》の報告ではそうなっている。指揮官は……確かガルブレイク将軍か」  それと副官がルミナスとかいったはずだ。  ラルファスは冷静に二人の名を思い出していた。ガルブレイクはこれまで何度も巨大な戦功を上げている老練《ろうれん》な将軍、そしてルミナスは、力よりも知力で勝負する策の多い男らしい。らしいというのは、何しろザーマインとサンクワールが戦うのはこれが初めてで、正確な情報を持っていないからだ。  だが、完全実力主義のザーマインのこと。侮《あなど》れない二人であることは間違いないだろう。 「ま、力の差はどうしようもないですがね、あっしとしちゃそれよりも、遙《はる》かに気に入らないことがあるんですぜ」  グエンは巨眼でラルファスを睨《にら》む。なぜか盛大に顔をしかめた。 「おまえらしくもなく、遠回しな言い方じゃないか。なにが気に入らない?」  ラルファスが穏やかに尋ねてやると、待ってましたとばかり、グエンが切り出す。 「もちろん、レインの大将のことですよ!」 「レインの?」 「そうッスよ! あの人は仮にも大将の友達でしょう? なのに、今回の逃げ方はどうにも気に入りやせんね。こんなヤバい戦いだってのに、自分だけさっさと——。まるで、友達である大将を見捨てたみたいじゃないスかっ」 「レインか。今頃どうしているかな」  ラルファスは、本国に残った親友の顔を思い出して微笑んだ。もう十日以上前に自領に着いているだろうから、おそらく金髪美女のセノアに毎日文句を聞かされているだろう。  シェルファ王女のことを頼んだ手紙を送ったのだが、もう着いているだろうか。 「なにを笑っているんですかいっ。あっしは怒ってるんですぜ!」 「私に怒っても仕方あるまい」 「そりゃそうですがね……ええいっ、大将はどうもお人がよすぎていけねえっ。ちょっとは頭にこないんッスかっ」  話してて腹が立って来たのか、グエンは血膨《ちぶく》れしたような顔を、ぐいっとラルファスに近づけて来た。  グエンには悪いが、子供が夜泣きしそうな顔だとラルファスは思う。もっとも、味のある顔だとも思うが。  ラルファスの思いなど知りもせず、グエンは一気に不満をぶちまけた。 「あっしはね、なんだかんだ言って、少しはあの人を認めていたんですぜ。大将を助けたこともあることだし。今回だって他の誰を見捨てても、大将は見捨てやしないと思ってたのに。全く、なんてこった!」 「……そう言われてもな。私は特にレインに裏切られたとは思っていないが」 「なにをこの後に及んで……これが裏切られたんじゃないってんなら、他にどう説明をつけるんですかい?」  ラルファスは肩をすくめただけで、抗弁《こうべん》はしなかった。  レインがそんな男ではないことを、彼自身はよくわかっている。だが、それを他人に理解してもらうのは難しいのだ。心の奥底で信じているものを、言葉では到底表せない。  しかし、グエンも前に自分達がレインのお陰で助けられたのだから、少しはあいつを信じてもよさそうなものだ。  まあ、今度のことはあいつらしくないと言えば言えるのだが——  待てよ。  そこまで考え、ラルファスはふとひっかかるものを覚えた。  そもそもなぜあいつは、あんな危険をおかしてまで謹慎《きんしん》にこだわったのか。本当に逃げる気なら、もっと他の方法もあるだろうに。レインの取った行動には、なにか裏がないだろうか? 思ってもみなかった裏が。  そこまで考え、天啓《てんけい》のように思いつく。 「そうか! あいつめっ」  大声に目を丸くしたグエンに、ラルファスは熱心に説明した。 「わかったんだ。レインがどうして謹慎《きんしん》を望んだのか」 「……なんだってんです?」 「つまりこういうことだ。もしレインが我々と一緒に出撃していればどうなっていた?」 「そりゃ、一緒に戦っていたでしょうよ」 「そうじゃない、そういうことじゃない」  ラルファスは激しく首を振った。 「もし我々と出撃していれば、あいつも一緒に死ぬことになるんだ。それでは、目的を果たせない」 「ちょっと、大将……まずいですぜ」  さすがのグエンも周囲を気にした。ラルファスの言いようは、この戦いに勝利がないことを宣言するようなものだからだ。 「大将らしくもない。で、目的ってなんなんですかい?」 「言うまでもなく、我々を救うことだ」  ラルファスは自信を込めて断言した。 「軍令《ぐんれい》に従って遠征《えんせい》軍に加われば、いかにあいつといえど、自在には動けまい? 陛下の命令に縛られ、最後には死ぬしかない。だから、わざと謹慎《きんしん》になったんだ。そうすれば自分の思い通りに動けるから、まだ我々を救うための手が打てる。それが真相だ」  それに違いない、とラルファスは確信した。  ただ、あの男が助けようとする中に陛下は含まれていないだろうが。  勢いこんだラルファスに対し、グエンは実に懐疑的《かいぎてき》な様子だった。強欲な高利貸《こうりが》しが、貧乏人の客を見るような顔をしている。 「……ま、それが真実なら、あの人にもがんばってもらいたいもんですね。いつもご自分のことを天才だと言ってるんスから」  遠くの仲間の方へ目をやり、全然当てにしていない調子のグエンである。今の説明を、一ミリも信じていないらしい。 「必ずなにか手を打つだろうな。それからグエン、おまえは疑っているようだが、あいつは文字通りの天才だよ。なぜか、自分で自分の天才性を信じてはいないらしいが」 「じょ、冗談じゃないですぜ!」  びっくりしたグエンが目をむいた。 「十歩、歩くごとに、自分を天才だって自称する人ですぜえ」 「グエンはうまい言い方をする。まあそれほどでもあるまいが、しょっちゅう口にしているのは間違いない。だが、話したことと本心は別だと私は思う」 「なんかあの人から聞いているんですかい?」  ひそひそと尋ねるグエンに、ラルファスはただ寂しげに笑いかけた。 「まさか。そんなに簡単に心の内をさらけ出す奴じゃないさ。ただ私がそう思うだけだ」  不審な顔で見返すグエンにそれ以上は説明せず、ラルファスはこちらへ歩み寄ってきたもう一人の副官を見て立ち上がった。 「どうした、ナイゼル?」  ナイゼルはそれなりの戦歴を持つ副官ではあるが、見た目はあまり騎士には見えない。  今朝洗ったとしか思えない艶《つや》のある黒髪が陽《ひ》に映《は》え、少女のように大きい緑の瞳が静かにラルファスを見つめている。  その美少年風の顔は、冷静そのものである。  だが、寡黙《かもく》で孤独を好むこの若者が世間話をしに来たとは思えないので、なにか上官に報告する事態が生じたことは間違いない。ラルファスは、なんとなく嫌な予感がした。 「報告します」  ナイゼルは完璧な手の動きで敬礼を済ませてから、天気の話でもするように言った。 「定時を過ぎても物見《ものみ》達が戻ってきません」  ラルファスはグエンと顔を見合わせた。  彼は敵地を進むときは、必ず複数の物見《ものみ》を送り出している。彼らが戻らないというのは、容易なことではない。 「おい! 戻らねえって、全員がかよ?」  黙って頷《うなず》くナイゼル。  ナイゼルはなんでもないような表情だが、無視していい事態ではない。物見《ものみ》が帰ってこないのは、普通、敵に殺されたと見るべきだからだ。  もちろんこの場合の敵とは、ザーマインに他ならない。  どうも敵は、とうにこちらの動きを掴《つか》んでいたらしい。  当たり前と言えば言えるな、とラルファスは唇を噛《か》みしめた。占領して間もないとはいえ、敵領を何日も行軍《こうぐん》していれば感づかれて当然である。言ってもせんないが、最初から無理のある計画だったのだ。 「……大将、ヤバいんじゃないですかい」 「ああ。どうも奇襲をかけるつもりが、反対にこちらが奇襲を受けつつあるらしい。陛下が心配だ。すぐに追いつかないと!」  ラルファスの言葉が終わるか終わらないかの内に——  遠くから微《かす》かに、大勢の者達が上げる怒号《どごう》のような声が響いてきた。  それに剣と剣がぶつかる金属音も。 「くっ。どうやら遅かったようだ!」  言うなり、ラルファスは鎧《よろい》をガチャガチャと鳴らして走り出した。遅れじと二人の副官が後に続く。  三人で、この音は何事かとざわつく部下達の間を駆け抜け、繋《つな》いであった馬に飛び乗る。部下達に、大声で呼びかけた。 「聞けっ。悪い知らせだが、どうやら敵に先手を打たれたようだ。おそらくこの音は、先に出立《しゅったつ》した陛下を初めとする部隊が交戦に入った音だ。我らも急ぎ参戦する!」  全員、さっきのざわめきが嘘のように静まりかえって、ラルファスの声に耳を傾けていた。全ての耳目《じもく》が彼に集まっている。  ラルファスは、自分の言葉が皆——特に騎士隊長クラスの者に届いたかどうかを見極めてから、力強く号令を出した。 「よし! では部隊ごとに整然と、速やかに進軍を開始せよ。戦場に着いたら一旦隊伍《いったんたいご》を整え、私の命令を待て。みんな、急げっ」  ラルファスの号令に従い、とまどっていた騎士の群が一つの目的の元に動き始めた。その動きは冷静で揺るぎない。  彼は厳しい顔つきの中にも、いささかの満足感を込めてグエンに話しかけた。 「みんな、いざ戦いともなれば落ち着くと見える。さすがに騎士だな」 「いやあ、それは違いますぜ。命令を下すのが大将だからこそ、ですよ」 「——? 意味がわからんが」  眉をひそめるラルファスに穏やかに首を振って見せ、グエンはただ前を指差した。 「わかんなきゃいいんすよ。それよりいきやしょうぜ! 大将がみんなに遅れちゃ話になんねえ」 「あ、ああ。そうだな!」  ラルファスは馬の腹を軽く蹴り、勇んで走りだした。  この遅れが致命的な物にならなければいいと祈りながら。  自分の部隊と共に急ぐことしばらく。聞こえてくる悲鳴や怒号《どごう》は、いよいよその激しさを増してきた。  さらに道行きを急ごうとするラルファスの目に、何人かの騎士がひとかたまりになってこちらに来るのが見えた。  見覚えのある百人隊長が混じっているので敵ではない。しかし、誰もが馬を失い、よろめきつつ走って来る。けが人が混じっていることから考えて、敗走しているようだ。  馬を止めて声をかけた。 「待て! どうしたというのだ? 戦いはどうなった」 「……ああっ」  軍勢を見て顔を強《こわ》ばらせた男達は、ラルファスを認めて哀れなほどほっとしていた。  グエンが大きく鼻を鳴らして言った。 「おいおい、もう逃げる算段《さんだん》かよ、えっ」 「わ、我々はっ」  と、顔見知りの百人隊長が憤慨《ふんがい》したように口を開いたが、じっと見守るラルファスの瞳に気圧《けお》されたように俯《うつむ》く。 「し、仕方なかったんだ! な、仲間の裏切りやらなんやらで」 「裏切りっ?」  ラルファスはきっ、と相手を見据《みす》えた。  隊長格の男は、ゴクリと喉を鳴らした。 「そ、そうです。敵の大軍が現れたかとお、思ったら、いきなりガノア殿とギレス殿の部隊が陛下直属の部隊に襲いかかり……へ、陛下はあっさりと首を……」  ラルファスの顔色が変わったのを見て、男は語尾が震えて後を続けられなくなった。  ギリッと歯を食いしばってから、ラルファスは静かに尋ねた。 「陛下が、お亡くなりになったというのだな」 「は、はいっ」  男達はラルファスの形相《ぎょうそう》を目の当たりにし、絞首台《こうしゅだい》に上がる寸前の罪人のように怯《おび》えていた。 「……陛下を殺《あや》めたのは、ガノアとギレスのどちらだ?」 「わ、わかりません。お二人とも、まるで競争するようだったので」  ラルファスはおおよその事情を察した。  つまり、いつからかはわからないが、あの二人はザーマインの誘いを受けていたのだろう。それで、今回の無謀な作戦を知り、ついに最後の決断をしたというわけだ。  ザーマイン軍が姿を見せた途端、ここぞとばかりに、ダグラス王に殺到したらしい。王の首は降伏の良い手みやげであり、後の出世の道具にもなるだろうから。 「っきしょうっっ! 汚ねえ野郎共だぜっ」  唖然《あぜん》としていたグエンが、我にかえったように吠《ほ》えた。ナイゼルは黙ったまま馬上で腕を組み、何事か考えている。 「……先を急ぐぞ」  なにか言いたげな男達にはもう構わず、ラルファスは無念の思いで馬を進めた。  心の中を占めるのは、重い後悔の念である。  もっと自分がしっかりしていれば、陛下を助けることができたのではないか? あるいは私は、ここに至るまでの選択をことごとく誤ったのではないだろうか?  今更の話だが、それでも自分を責めずにはいられない気分である。 「森の終わりが見えてきやしたぜ!」  グエンが気遣《きづか》うように、声を掛けてきた。ラルファスは馬足を一層速め、明るい日差しの中に飛び出した。  視界が開けると同時に、遥《はる》か向こうに真っ黒な大軍が見えた。  ザーマイン軍の鎧《よろい》は基本的に黒で統一されているので、その眺めは壮観《そうかん》である。まるで大地そのものが、巨大な黒い絨毯《じゅうたん》で覆《おお》われたようだ。  が、直接戦闘行動を続けているのはもはやその一部で、押しまくられているサンクワール軍は壊乱《かいらん》の一歩手前と言ってもいい。というか、あまりにも兵力が違いすぎ、早々に戦場で潰《つい》え、あるいは逃亡したようである。  四万に届こうかという敵に呑み込まれるように攻められ、突き崩され、誰が見てもサンクワールの敗北は明らかだった。  銀色に輝く鎧《よろい》の群れは、漆黒《しっこく》の軍勢により、押し潰《つぶ》されかけている。  しかもラルファスの見る所、王の直属部隊五千は既に壊滅《かいめつ》状態で、今戦っているのは生き残りの上将軍《じょうしょうぐん》達が率《ひき》いる、僅《わず》か数千程度の数に過ぎない。  ラルファスの後ろに整然と隊伍《たいご》を連ねながら、部下達は声もなく前方の惨状《さんじょう》を見つめていた。 「大将……こりゃ、もう」  グエンがためらいがちに声をかけてきた。  ゆっくりとラルファスは首を巡らせる。グエンの言いたいことはわかる。もうこの戦いに加わる意味はない。既に守るべき王は首にされているし、まだ戦っている味方も、すぐに全面敗走に移るに違いない。  ただ、あっさりと逃がしてくれるザーマイン軍ではないから、もしラルファス達に撤退する気があるのなら、今この場でそうすべきだろう。 「わかっているさ、グエン」  自分でも驚くほど落ち着き払い、ラルファスは部下達に向かって宣言した。 「残念ながら、勝敗は決した。我らが今から戦いに加わる理由はないように思う」  シーンとして、整列した騎士達はラルファスの言葉に聞き入っていた。 「馬の足の続く限り、故郷のサンクワールへ走れ! 私の命令を待つ必要はもうない。各自、故国を目指せ!」  さあ、と手を振るラルファス。  答礼はなかった。いつもはすぐに命令を遵守《じゅんしゅ》する部下達が、一人も動こうとしなかった。  いらだってもう一度強く命令しようとしたラルファスの前に、寡黙《かもく》なナイゼルが静かに前へ出た。 「将軍はどうされるのです」  深い声音《こわね》で訊《き》く。 「私か、私は——」  なにか言い訳らしきことを言おうと思ったが、早々にあきらめた。  そう簡単にごまかされる相手ではない。 「私はここを死に場所と決めた。私のことはいいから、おまえ達は国へ帰るんだ」  ナイゼルはなにも答えず、ラルファスをじっと見返した。 「……なにを考えている、ナイゼル」 「お教えできかねます。将軍はお止めになるでしょうから。ともあれ、お心はよくわかりました」 「その答え方で、どうするのかはもう明らかじゃないか! 黙って言うとおりにしてくれないか」 「嫌です」  身も蓋《ふた》もないほどキッパリとした返事。  ラルファスは一瞬二の句が継げず、唖然《あぜん》としてしまった。  そこでいきなり、真っ赤な顔のグエンが、ナイゼルの背中をぶっ叩いた。  この気のいい大男は余程感激したのか、バシッバシッと連続でナイゼルをどやしつけ、彼を咳き込ませた。 「えらいっ。それでこそ男だぜ! 陰気な奴だと思ってたが、なかなか男気のある奴だったんだな、おめーは!」 「……グエン殿に誉《ほ》められても嬉しくない」  ナイゼルは、咳が止まってからニコリともせずに言った。 「ちっ。可愛げのないそういうところは、相変わらずか」  グエンは太い喉を反《そ》らして豪快に笑った。 「おいおい。笑っている場合ではなかろう、グエン。ナイゼルもだ。頼むから国に帰ってくれないか。今ならまだ間に合う」 「もういいじゃないですか、大将。死にたくない奴は放っておいても逃げるでしょうし、大将と運命を共にする気のある奴は、どう言ったところで言うことを聞きゃしませんぜ」  背中に担いでいた巨大な戦斧《せんぷ》を振り回し、グエンが陽気に言う。  自分のことを言ってるな、とラルファスはため息を吐《つ》いた。  ただし、グエンだけではない。  ナイゼルを初め、誰一人としてその場から動こうとしなかった。 「みんな、すまないな……」 「なにを言ってるんすか。それより、どこを攻めやす? 敵は選び放題ですぜ」 「そうだな」  ラルファスは表情を改め、敵の大軍に離れて布陣する、かつての味方を指差した。 「どうせ死に行くにせよ、けじめだけはつけさせてもらおう」  サンクワールを裏切ったギレスは、大変珍しいことに、まだ戦闘中にも関わらず最前線に来ていた。  もちろん理由はある。  絶好の手柄であるダグラス王の首級《しゅきゅう》を先にガノアに取られてしまったため、かつての味方が崩れた今こそ、少しでもたくさんの首を取って、ザーマインへの忠誠を明らかにしなくてはならないのだ。  寝返りの確約を最後まで保留にしたツケが、今になって回ってきたわけだ。  まあ、どうせかつての味方は全面潰走《ぜんめんかいそう》の有様《ありさま》なのだから、前線に出て来ても安全である。  とにかく、ギレスはそう考えていた。  ——ガノアの馬鹿め。ちょっと王の首を取ったからといって、すぐに後方へ下がりおって。まだまだ手柄を立てる機会だろうに。  馬上で太った身体をユラユラと揺らせながら、ギレスはのんびりと今後の計画に思いをはせていた。  ザーマインからの密書では、これまで彼が領していた領地の、数倍に当たる恩賞《おんしょう》を約束されている。それだけの富があれば、新しい城を建てるのもよい。  今の城は、自分には狭すぎて似合わないと常々思っていた。  もっとたくさんの側室《そくしつ》も必要だろう。部下に命じて、せいぜい美人を探させないと。  ギレスの脳裏に、何となくシェルファ王女のたぐいまれな美貌《びぼう》が浮かんだ。あの美少女をモノに出来ないだろうか。いや、不可能でもあるまい。今やあの少女も、昔のように高嶺《たかね》の花ではない。  たおやかな王女を自分が弄《もてあそ》ぶところを想像してニヤニヤしていると、副官の一人が馬を寄せてきた。顔が真っ青である。 「将軍! 大変ですっ、敵っ、敵ですっ!」 「敵だと? なにを寝ぼけている。あいつらならもう、全滅したも同然ではないか!」 「その敵ではありませんっ」  副官はいらだちと一抹《いちまつ》の恐怖を顔に出し、ギレスに捲《まく》し立《た》てた。 「ラ、ラルファス将軍の部隊が……あの方達の部隊がこちらに突っ込んで来ます! もうすぐそこにっ」 「なにっ」  ギレスは慌《あわ》てて前方を注視した。  言われてみれば、砂煙を巻き上げ、怒濤《どとう》の勢いで小部隊がこちらに攻め寄せて来る。その、獅子《しし》を象《かたど》った旗印は、紛れもなくラルファスの物だった。 「ば、馬鹿な……」  ギレスは太った身体を震わせて、呻《うめ》き声を絞り出した。  ラルファスが到着していたのを見落としていたわけではない。しかし、まさかこの段階で彼が戦線に加わるとは思わなかったのだ。  とうに勝負が決まり、後はサンクワール軍の壊滅《かいめつ》を待つだけの戦いに、戦巧者《いくさこうしゃ》のラルファスともあろう者が無益に挑んでくるはずがない。あくまでサンクワールに忠誠を誓うにせよ、ここは退《ひ》いて再戦を期すだろうと。  ——損得勘定のみで生きてきたギレスの、それが大きな計算違いである。  ラルファスにとっての基準は、彼には到底理解できない物だったのだ。 「どうします、将軍っ」  副官が尋ねたが、訊《き》きたいのはギレスの方だった。 「と、取りあえず防げっ。すぐにザーマイン軍が助けてくれるはずだっ」  思いつくままにそう怒鳴った途端、第一波が来た。  敵の前衛《ぜんえい》が、鋭い錐《きり》のようにギレスの部隊に斬り込んできた。  ギレスの部下達にはほとんど戦意がなかった。  自分達が裏切り者だという後ろめたさの他に、ラルファスへの拭《ぬぐ》いきれない恐怖心もある。なにしろ、彼の勇猛さとその武勲《ぶくん》は、サンクワールの騎士達の間に轟《とどろ》いている。  それは、指揮官であるギレスでさえ例外ではない。彼は非常な自信家だったが、それでも自分がラルファスに勝てるとは思っていなかった。  案の定、ラルファス自身が先頭に立つ部隊は、ギレスの前衛《ぜんえい》を一瞬にして叩き伏せてしまった。ギレスの喉が鳴る。  なんという勢いだ……あんな奴に勝てるはずがない。ザーマインは、あいつらはどうして助けに来ない!!  泣き出しそうになりながら後方を窺《うかが》ったが、さしたる距離でもないのに、ザーマイン軍は既に軍を引いている。布陣した場所から一歩も動かない。  面憎《つらにく》いほどの静けさで静観を保っている。 「くそっ、どういうことだっ、これはっ」  副官に当たろうと脇を見たギレスは、いつの間にかその副官が姿を消しているのに気付き、背筋が冷たくなった。  見捨てられた!  身体がガクガクと震え出す。しかも明らかに敵《かな》わないとわかり、他の将士《しょうし》も次々と馬首《ばしゅ》を巡らせて敗走に移っていた。  普段から威張り散らすギレスを慕《した》う部下など皆無で、みんなこの時とばかり、いけ好かない指揮官を見捨てたのである。 「あ、あ……」  恐怖に駆られ、ギレスは自分も逃げようと手綱を思いっきり引き絞った。  お陰で慣れない馬はてきめんに機嫌を悪くして嘶《いなな》き、騎手を振り落としてしまった。 「うわっ」  ギレスは無様《ぶざま》に地面に転げ、強く腰を打って悲鳴を上げた。  間の悪いことに、丁度辺りの人影がまばらになっていたので、その様子はラルファスの目に止まった。  お互いの目に一本の線を引いたように、ギレスとラルファスの視線がぴたりと合う。 「ギレスっ! そこを動くなっ!」  日頃物静かなラルファスが、雷鳴のような声を放った。 「ひいっ」  魂の吹き飛ぶ思いをたっぷりと味わい、ギレスは這《は》うように逃げ出そうとしたが、既に馬はどこかへ駆け去った後だった。 「だ、誰かおらんのかっ」  その呼びかけに答える者は誰もおらず、ようやく立ち上がったときには、ラルファスその人がギレスの目の前に静かに立っていた。  背後には二人の平民の副官もいて、ギレスを厳しい表情で見据《みす》えている。 「あ、あっ……」  ギレスは、ゴクリと唾《つば》を呑み込んだ。  その顔から目を離さずに、ラルファスは静かに問いかけた。 「陛下を手に掛けたのはおまえか、ギレス」 「ちっ、違うっ。首を、く、首を取ったのはガノアの方だっ。お、俺じゃないっ」 「……そうか。ならば、あの男はおまえの後で冥界《めいかい》に送ってくれよう……さあ構えろ、ギレス」  ラルファスがスラリと剣を抜き、構えた。  こちらを射抜くような鋭い瞳、隙《すき》のない構え——まさに圧倒的な迫力だった。  ギレスは、普段のラルファスのことを、物静かでお人好しな奴、と評価していたものである。しかし、身体中が震え出しそうな恐怖と共に、今こそ悟った。  これまで自分が知っていたのは、この男のほんの一面に過ぎなかったのだ。  冗談じゃないぞ! こんな奴と戦えるかっ。もし勝てる奴が居るとしたら、文字通りの化け物のレインくらいのものだっ。 「ま、待て。なにもそうむきになることもあるまい。なっ。サンクワールはもう滅んだも同然だ。貴公も今後の身の振り方を考えねばならんだろう、なっ」  相手を刺激しないようにそうっと立ち上がり、ギレスはへらへら笑う。  ラルファスは、単に眉をひそめただけだった。  ジャキッ  剣を持ち直し、ギレスの鼻先に突きつけてきた。 「ギレスよ。貴公も最後くらい、騎士らしく剣を取ったらどうだ?」  ラルファスの瞳を覗き込み、ギレスは震え上がった。  本気だっ、こいつは本気で俺を—— 「お、恩賞《おんしょう》を! 俺が受け取るはずだった恩賞《おんしょう》を、全ておまえにやるっ。た、たのむっ、命だけはっ」 「見苦しいぞっ、ギレスっ」  ラルファスが剣を振りかぶった。  ひいっ、とかすれるような悲鳴を上げ、ギレスは背を向けて駆け出そうとした。  だが、すぐに「痴《し》れ者っ」という大声と共に、背中に熱い衝撃を受け、ギレスの意識は永遠に消し飛んだ。 「出来れば、後ろから斬りつけたりはしたくなかったのだが」  俯《うつぶ》せに倒れたギレスの死骸《しがい》を見やり、ラルファスは首を振った。  剣を一振りし、鞘《さや》に収める。 「しょうがないすよ。意地汚《いじきたな》く逃げようとしたんですから。自業自得ですぜ」  ベッと唾《つば》を吐き、グエンは決めつけた。  最後まで見苦しかったギレスに、同情する気はまるでないようだ。  それはまた、冷たくギレスを見下ろすナイゼルも同様だろう。 「それにしても、大将。ザーマインの奴ら、このろくでなしをまるきり助けにきやせんでしたね。どういう気なんでしょう?」  ラルファスは沈んだ声で教えてやった。 「別に不思議はあるまい。彼らにすれば、放っておけば邪魔者同士が潰《つぶ》しあってくれるんだ。手間がかからなくていいじゃないか」 「——なるほど。てことは、ギレスは最初から見殺しにする気だったんすね。使い捨てってわけだ……けっ、気にいらねえ」  グエンがまた唾《つば》を吐く。  顔の割に潔癖《けっぺき》な彼にすれば、我慢ならないのだろう。  ラルファスもいい気分ではなかったが、素早く頭を切り換える。  ザーマインの黒い大軍の中に、ガノアの姿を探し求めた。  しかし、よほど後陣にいるのか、あの男の旗印はまるで見えない。  それでもあきらめずに目で探していると、やがて、ピーッッという笛の音のような音がした。  何の合図かと悩む必要はなかった。大陸中に名を轟《とどろ》かす漆黒《しっこく》の軍団が、地響きを立てて移動を始めたのである。目的は無論、ラルファス達の殲滅《せんめつ》だろう。  既に、他の部隊は全滅するか逃げ散るかしてしまっている。 「どうやら、ガノアはあきらめるしかなさそうだな」 「——ですなぁ」  平然と、グエンが同意する。  ナイゼルも慌《あわ》てず騒がず、ただ黙って突入してくる大軍を見つめていた。  ……とにかく、この二人には生き抜いてほしいのだが。 「グエン、それにナイゼル、ここは——」 「くどいですぜ、大将」 「もう気持ちは定まりました」  ラルファスが口を開いた途端、二人同時に言われてしまった。 「……そうか」  ラルファスとしても、それ以上は説得のしようがなかった。  この二人はなんとしても、自分と運命を共にする気なのだ。それを思いとどまらせるのは、例え命令によってさえ不可能だろう。  忠実な二人の副官を見、背後に整然と控える部下達を見てから、ラルファスはヒラリと愛馬に跨《またが》り、長槍《ながやり》を手にした。 「ならば、もはや語るべきことはない! 我らが敵に、最後の意地を見せてくれよう!」 「おおうっ!!」  二千に近い部下達の唱和《しょうわ》を背中に受け、ラルファスは放たれた矢のように馬を走らせた。  大地を揺るがして前進する敵の大軍をめざし、まっすぐ駆ける。  敵の前衛《ぜんえい》が見る見る内に近づく。突入する前に一度馬を止め、高らかに名乗りを上げた。 「我が名はラルファス・ジュリアード・サンクワール! 功《こう》を望む者は、前へ出よっ!」  ザーマインの騎士達は一瞬あっけに取られ、次の瞬間、生意気な敵の首級《しゅきゅう》を上げるべく、ラルファスに殺到した。 「これは驚きましたね。ラルファスという男、どうやらこちらに挑んでくるようで」  ザーマインの本陣で副官のルミナスは、ぽつりと呟《つぶや》いた。  尖った顎《あご》となめらかな白い肌を持つ、三十がらみの武人である。身につけた黒い甲冑があまり似合っていない。その油断のならない目は、前方の敵を見据《みす》えていた。  よりにもよってラルファスその人を先頭に、哀れなほどの小勢がこちらに向かってくるのである。正直、あきれていたが、少しは感心もしていた。 「ふむ。あれでこそ、真の騎士というものだ。我が方へ寝返ったガノアやギレスとか申す者達とは雲泥《うんでい》の差だな。時に、あの男は王族なのか? 今、サンクワール姓を名乗ったが」  筋肉のたっぷりついた分厚い身体をした偉丈夫《いじょうぶ》が、長く伸ばした顎髭《あごひげ》をしごきつつルミナスに声をかけた。短く刈り込んだ銀髪に、岩を削ったような厳つい顔立ちをしている。ルミナスよりだいぶ年上である。  この遠征《えんせい》軍の総指揮官、ガルブレイクだ。 「いえ、あのラルファスという男、年来の武功により、特にサンクワール姓を許されているとか……味方にするのなら、あのような者が望ましかったのですが」  ルミナスはそう言ったものの、同時にそれが無理であることもわかっていた。  事前の調べでも、ラルファスが忠誠心の厚い男だとわかっている。領地や金で転ぶくらいなら、とっくに誘いをかけていただろう。  大抵の人間は利で釣れる。しかし、それが不可能な者も確かにいるのだ。 「今となっては、こちらに引き入れるのは無理か……では、どうする?」  ガルブレイクが残念そうに訊《き》く。  もちろん、軍師たるルミナスの返事は決まっている。  敵は既にこちらの前衛《ぜんえい》と接触している。勝負はさほど長くはならないだろう。 「もちろん、倒します。味方に出来ない以上、敵には違いありませんから」 「それしかない、か」 「はい」  短く応じるルミナス。  どんなに優れた戦略眼を持つ騎士と言えど、遮《さえぎ》るモノのない平原で、策も用いずに数万の兵力差を覆《くつがえ》すことは出来ない。  兵力差こそ、勝敗を決める最も重要な要素なのだ。  大軍と小勢が百度ぶつかれば、百度とも大軍が勝つ。それが戦《いくさ》における絶対の真実である。  ただ……気になることがないではない。  他ならぬ、レインのことである。  実はルミナスがサンクワールの上将軍《じょうしょうぐん》の中で一番警戒していたのが、「知られざる天才」こと、レインなのだ。  複数の間諜《かんちょう》の報告では、レインは謹慎《きんしん》中だという。軍議《ぐんぎ》の席において、奇襲の不利を説いたのが原因らしい。  さすがに無謀な戦いに従軍するほど愚《おろ》かではなかった訳だが、しかし、それではあの男は自分の友人をも見捨てる気なのだろうか。  調べたところでは、ラルファスとはかなり親しい仲らしいのだが……  そこがルミナスの引っかかっている点であった。端的に言えば、罠でもあるのではないかと思うのだ。  だが、本当に策らしき物があるのなら、ラルファスのあの、無謀きわまる戦いぶりはどうだ? あれでは指揮官たるラルファス自身の命が危なかろう。  ——つまり、レインは策など巡らしていないということか。俺の考えすぎか。  ルミナスが考え込んでいると、ガルブレイクが急に話しかけてきた。 「なにか気になるのか」 「は……。いえ、あのラルファスの同僚の、レインのことが少し気になりまして」  ルミナスは、自分が危惧《きぐ》するところを要領よく説明した。 「——というわけで、もしや、彼の邪魔が入るのではと」 「ふん、そういえば、陛下もレインについて少し警告をされていたな。しかしそいつは今、自分の城にいるはずであろう。それに、もしその情報が誤りだったとしても、多少の援軍《えんぐん》などこの大軍には通用せん」 「……彼は危険です。あまり甘く見たくないのですよ」  ルミナスはあえて上官に逆らう危険を犯し、慎重に異を唱《とな》えた。  彼には、レインを警戒するに足る、十分な理由があったのだ。しかし、それを今、ガルブレイクに告げるのは得策ではない気がする。  どのみち、ガルブレイクはルミナスの異論にさして関心を示さなかった。  馬鹿にしたような横目で見、大きく鼻を鳴らしただけである。  そして、すかさず文句。 「レインのことなど、どうでもいい。それより、どうしたルミナスよ。こちらの前衛《ぜんえい》がやや崩れているぞ。増援《ぞうえん》の指示をださんかっ。予備兵力は幾らでもあろう」  ガルブレイクの声に、ルミナスははっとして戦況を確認した。  ラルファスの部隊は、前衛《ぜんえい》と後衛《こうえい》を目まぐるしく入れ替える戦法で、こちらの部隊をやや斬り崩しつつある。あんな少人数で大したものだ。が、無論、戦況をひっくり返すほどではない。  気狂いしたようにこちらに突っかかっているが、それくらいで人数の差は挽回できない。 「やむを得ませんね。惜しい男ですが、そろそろ勝負を決めるといたしましょう」  ルミナスは伝令を呼び、さらに五千の兵を二手に分け、ラルファスの部隊の両翼《りょうよく》に展開させることにした。これで決まりだろう。  連絡を受けた部隊が勇んで動き出す。ルミナスとガルブレイクはその動きを目で追った。  ——しかし。 「んっ?」  ルミナスは目を細めた。  なぜか急に、視界が霞《かす》んだのだ。  妙にもやが出たと思ったら、たちまち白い霧に変化していく。 「むっ」  ガルブレイクも気付いたらしい。  遠くの森や、部隊——それらが、霧の中に溶け込みかけている。それも、どんどんひどくなっている。 「なんだ、霧か?」 「いえ、これは……しまった! 魔法かっ」  ミルクを溶かし込んだような真っ白な霧が、味方も敵も同様に覆《おお》い始めていた。ルミナスは慌《あわ》てて、伝令に言って先程の命令を取り消させた。  このままでは同士討ちの危険があるからだ。 「どういうことだ、ルミナスっ」 「敵の魔法でしょう。おそらく何人もの魔法使いが、魔力で霧を生み出しているかと」 「なにっ」  やってくれたな、レイン。  ルミナスはそっとため息を吐《つ》いた。ここで邪魔をするのは、レイン以外には考えられない。やはり、ラルファスを見捨てる気はないらしい。  見張りの、マジックビジョンによる報告では、レインは居城から動いていないとのことだったが、おそらく部下でも派遣したのだろう。  してやられたわけだが、なぜかそう悪い気分でもなかった。 「ルミナスよ、これは下手に動けんな……」 「はい。同士討ちの危険を冒すわけにもいきません。何人かに周囲を探索させて、術をかけている魔法使い達を探させましょう」  と、意見を述べつつも、そんな少人数を見つけるのは無理だろうな、とルミナスは思っていた。  どうやらここは、霧が止むのを待つ他はなさそうだ。  ——やってくれたな。だがレインよ、逃げるだけでは勝てない。我々の最後の勝利は動かん。  ルミナスは馬上で腕を組み、霧が晴れるのをじっと待った。  夢中で戦っていたラルファスは、周囲を霧に覆《おお》われて戦闘不能になったため、ようやく馬を休めた。  ザーマイン軍も同士討ちを恐れて自然と後退していく。 「……命拾いしやしたね、大将」  グエンがため息を吐《つ》いて馬を寄せてきた。  奮闘《ふんとう》したことを物語るように、彼の鎧《よろい》は所々へこみ、亀裂が走っている。ひっそりと控えるナイゼルも同様だ。 「グエン、怪我《けが》をしたのかっ」  グエンの鎧《よろい》の膝に当たる部分に穴が空き、そこからだらりと血が流れているのを見て、ラルファスは慌《あわ》てて馬を降りようとした。  それをグエンが手で押しとどめる。 「どうってことありませんよ、大将。骨までは届いてません。大将こそ、腹を怪我《けが》していなさるじゃないですかい?」 「……私こそかすり傷だ」  なんでもない、というようにラルファスは力強く頷《うなず》いた。本当はそう軽い傷でもなかったが、命に別状ないのは確かである。 「しかし、タイミング良く霧が出たもんですねえ。こりゃ奇跡ですぜ、大将」 「グエン、奇跡とは、そう簡単には起こらないものだ。これはレインの仕業《しわざ》だよ。あるいは、あいつの部下の、な」 「ま、まさかあ。考えすぎでしょう」 「……誰かこっちへ来ます」  とナイゼルが静かに口を挟んだ。  言われてみると、蹄《ひづめ》の音がする。誰かが単騎、近づいてきているらしい。 「敵かっ」  グエンがすかさず戦斧《せんぷ》を持ち上げた。ナイゼルも槍《やり》を構え直す。  が、ラルファスはある予感がしたため、じっと動かなかった。 「二人とも武器を下ろせ。大丈夫だ、これは多分」  言い終わらない内に、濃い霧の中から黒馬に乗った男が踊り込んできた。 「ラルファス殿とお見受けしますが」  馬を止めた男は、まっすぐにラルファスを見つめた。  痩せぎすの身体に、女性と見間違うような繊細《せんさい》な顔立ちをしている。鎧《よろい》は身につけず、厚手のシャツの上にマントを羽織《はお》っていた。  黒い髪と緑の瞳はサンクワールの平民の特徴だが、ただの平民にしては、やけに目つきが鋭い。しかもなにが気に入らないのか、随分とぶすっとしている。あるいはそれが地顔なのだろうか。 「いかにも私がラルファスだが、そちらは?」  ラルファスが尋ねると、男は馬上で気がなさそうに一礼した。 「申し遅れました。私はギュンター・ヴァロアと申す者。我が主《あるじ》レイン様の命により、ラルファス様をお迎えに上がりました」  ギュンターは不機嫌そうにむっつりと名乗った。 「やはりか」  大きく口を開けたグエンを横目で見つつ、ラルファスは小さく息を吐いた。 「あいつもここに来ているのか」 「いえ、レイン様はそのおつもりでしたが、私がお止めしました。主《あるじ》がコートクレアス城におられる方が、敵が油断しますので」 「……そうか。しかし、ギュンターとやら。私はレインの幕僚《ばくりょう》についてはかなり詳しいつもりだったが、君は初めて見るな」 「私はこのような時のためにレイン様が組織しておられた、諜報《ちょうほう》や工作に携《たずさ》わる部隊の長です。そんなことより、早く脱出してください。配下の者が魔法で霧を生み出していますが、魔力は無限に続くわけではありません」  若干のいらだちを含めた声で、ギュンターがラルファスを促した。おそらく、時間があまり無いのだろう。  ラルファスはすぐには答えず、じっと霧の奥を睨《にら》む。グエンやナイゼル、それに他の部下達も、そんな上官を黙って見守っていた。  やがてラルファスは苦悩の声で言った。 「私は、出来ればレインの助けが入る前に死ぬつもりだった。陛下をむざむざと死なせた罪を免《まぬが》れる気はない。今もその気持ちに変わりはないんだ」 「それは、あくまでもここを死に場所とする、ということですか」  ギュンターは顔色も変えずに確認した。 「そうだ。帰ってレインに伝えてほしい。おまえは生きて王女様をお助けしてくれと。ザーマインはあの方を見逃しはしないだろうから。それから、出来れば部下達を連れて」 「おっと!」  黙って聞いていたグエンが断固として割り込んだ。 「その話なら、終わってますぜ。俺達はどこまでも大将に付き合う、てね」 「しかし……」 「いずれにせよ、私はお伝え出来かねますな」  揉《も》め始めたラルファス達を、ギュンターが遮《さえぎ》った。 「どういうことだ?」 「私にとって、レイン様の命令は絶対の物。あなたをお連れ出来ずに、おめおめと帰る気はありません。望むところではありませんが、あなたに付き合って死ぬ他はありませぬ」  むっつりとした表情を崩さず、ギュンターは世間話のようにさらりと語った。 「なに!」  この男、本気か、とラルファスはまじまじと相手の顔を覗き込む。  平然と見返された。その瞳は小揺《こゆ》るぎもしない。  一体、どういう男なのか。貴族には見えないのに姓を名乗ったりしたが。 「確かに死を選ぶのですね? ならば私は部下に後事《こうじ》を託《たく》さねばなりません。では!」 「ま、待てっ」  未練なく走り去ろうとするギュンターを、ラルファスは進路を塞《ふさ》いで辛うじて止めた。 「まだなにかあるのですか?」  ものすごく迷惑そうにギュンターが言う。  ここまで自分の生死に興味を持たない男も珍しいだろう。ラルファスに付き合って死ぬと言いつつ、別にこちらを思いとどまらせようとするでもないのだ。  ラルファスの心に、初めて迷いが生じた。  放っておけば、間違いなくこの男は死ぬだろう。その目を見る限り、脅しなどではない。  つまり、自分のせいでレインの忠臣を死なせることになる。  いや、問題はギュンターだけではない。ラルファスの部下達も、誰一人として逃げようとしないのだ。  ラルファス自身は、誰も道連れにする気はないというのに。  どうすればいいっ。どうすれば! 「大将……」 「将軍……」  グエンとナイゼルが心配そうにラルファスを見やる。  ギュンターはそんな彼らを顔色も変えずに眺めていたが、まるで今思いついたように呟《つぶや》きを漏らした。 「そうそう、レイン様の伝言を一つ、伝え忘れておりました」 「……なんだ?」  ラルファスが思い悩んだ顔を上げた。  ギュンターは落ち着き払って、 「レイン様はこう伝えよ、と申されました。喧嘩《けんか》というのは途中経過は問題じゃない。最後に誰が立っているかなんだ、と」 「他にはなにか?」  ラルファスが苦労して微苦笑を浮かべると、ギュンターはにこりともせずに続けた。 「そう言えばこうも申しておりましたな。『俺に責任を押しつけるな、馬鹿たれっ』だそうです」 「それはまた、実にあいつらしい言い草だな」  ラルファスはこんな時にもかかわらず、小さく吹き出した。  やがてそんな気もなかったのに大きく肩が震え、声を放って笑い声を上げた。部下達のとまどったような視線もお構いなしに。 「で、どうなさいます? お気持ちは変わりませんか。私は非常に急ぐのですが」  あくまでも不機嫌な表情のままで、ギュンターがめんどくさそうに訊《き》いた。眉の間にぎちちっと縦皺《たてじわ》が寄っている。せっかくの美貌《びぼう》が台無しだった。  ラルファスはやっと衝動的な笑いを引っ込め、力強く返す。 「いや、気が変わった。どうやらレインにはまだまだ勝算があるらしい。それに賭けることにした」 「……面倒なことですな。最初からそうおっしゃれば良かったのです」  ぶすっとギュンターが答えた。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_113.jpg)入る]  第三章 シェルファ、ガルフォート城を去る  ザーマインの王都リアグルは、大陸の主な街道がいくつか通る要所にあるため、商人の出入りも多く、かなりのにぎわいがある。  従って王都に住む住民も、自然と他国の民より生活水準が高く、裕福な者が多い。  現在、複数の国を相手取った戦いに連戦連勝中のザーマインであるから、この繁栄はさらに加速されるかもしれない。  そんな王都のほぼ中心に、最近古い城を改修《かいしゅう》してレイグル王が築城《ちくじょう》した、ゲイニス城があった。  堂々たる巨城である。  深く掘られ、満々と水をたたえた堀は二重に城を囲んでおり、城壁の高さもそびえ立つようだ。  ただし、築城《ちくじょう》されてからまだ間がないのにもかかわらず、外観はお世辞にも華美《かび》とは言えない。装飾のたぐいが一切ないからだ。  石を積み上げて建てられた塔は、材料の石がそのまま外壁になっているし、城門や城壁にも、余計な装飾はまるでない。  この城の主レイグル王は、城の見栄えなどには一片の関心も持っていないからだ。  広々とした謁見《えっけん》の間に、王の前に跪《ひざまず》いた宰相《さいしょう》ジャギルの報告の声が響く。  この、広さだけは十分すぎる広間の床には絨毯《じゅうたん》すら敷かれておらず、ただ例外的に、玉座《ぎょくざ》の前から入り口に至る場所まで、真っ赤な帯状の敷物が道を作っていた。  遙《はる》かに高い天井にはシャンデリア、壁際にはたくさんの燭台《しょくだい》が備え付けられており、そこに立てられた蝋燭《ろうそく》の炎で光量に不足はないものの、殺風景な部屋はどこか冷たい印象を拭《ぬぐ》えない。  花が飾られているわけでも、壁に絵画が掛かっているわけでもない。  玉座《ぎょくざ》を据える場所とは思えないほど、寂しい部屋だった。 「……マジックビジョンで報告を受けたところによると、既にダグラス王の首級《しゅきゅう》は取ったとのこと。これで後は、サンクワール本国に進軍するのみでございます。陛下、ご決断を」  魔法使いが使う術の一つ、「マジックビジョン」は、どんなに距離が離れていても、特定の姿や景色を任意の相手に送れるのだ。  お陰でジャギルは、戦況をほぼリアルタイムで知ることが出来る。  今の時代になお、魔法使いを実戦部隊に投入している大国の余裕である。  ともあれ、報告を済ませたジャギルは、レイグル王の指示をじっと待つ。が、王は黙したままだった。  しばらく待ったが返事がないので、仕方なくそっと目を上げる。  薄絹で仕立てられた黒い礼服をゆったりと着こなした王は、眠るがごとく両目を閉じてなにか考え込んでいた。  長く美しい銀髪が顔を半ば隠してはいるが、レイグル王が男としてはかなりの美貌《びぼう》なのは明らかである。 「陛下?」  もう一度呼びかけてみた。  レイグルは相変わらず黙したままだ。  まさか本当にお休みになられているのか。  やむを得ず立ち上がろうとした。だが——  それを見越したように、レイグルは目を開いた。ひたと初老の臣下《しんか》を見据《みす》える。  ジャギルは黒々とした王の瞳に、まるで闇そのものに見つめられたような気がして、ぶるっと身体を震わせた。  慌《あわ》ててもう一度膝を折る。  怒りを買うのはごめんだった。なにしろこの主は、五年前に前の王を打倒して王位についたくらいだ。いざとなれば、ジャギルの首など簡単に刎《は》ねられてしまう。つい先日も、反逆を企んだ粗忽者《そこつもの》達が、いとも簡単に斬られてしまった。それぞれ、有能で腕の立つ武将だったのだが。 「報告は聞いたが、レインのことについてガルブレイクはなにも言ってこなかったか」  冷え切ったレイグルの声。  ジャギルは一層頭を下げ、 「いえ。ただ、敵の王の首は取ったとしか」  なにが気に入らないのか、それを聞き、レイグルは微《かす》かに顔をしかめた。  またしても何事か考えている。  ジャギルは首をひねった。どうもこの方の考えることはわからない。レインとかいう平民の男を気にしすぎておられるようだ。  先祖代々の名門に生まれたジャギルにしてみれば、誇るべき何物もない平民の男など、取るに足りない存在なのである。  あのラルファスという貴族の男なら、まだ警戒する必要もあるだろうが。  こちらの思いなど無視して、彼の主は重々しく言った。 「……レインに刺客《しかく》を送れ。なるべく腕利《うでき》きを、大勢だ」 「はあ。刺客《しかく》……でございますか」 「そうだ。腕の立つ者を選ぶよう。人数は……そう、最低でも十人以上だな。その間、サンクワールへの進軍は、別に急がずともよい」 「はあ」  そこまであの男を重く見ているのか……。突き上げた不満が、レイグル王への恐怖心を一時忘れさせた。ジャギルは思い切って進言した。 「陛下、レインとやらは確かに才能豊かではありましょう。しかし、たかが平民。陛下がさほどに重視されるほどの存在でしょうか?」  王はすぐには答えなかった。だが、ややあって呟《つぶや》くように返した。 「貴族とはそれほど偉いものか?」  ジャギルの背筋に冷たい物が走った。  自分の失言に思い至ったのだ。つい失念していたが、レイグル王その人も、元は十年ほど前にどこぞから流れてきた単なる平民なのである。 「お、お許しをっ」  歯の根が合わないほど怖じ気づいたジャギルは、床に額が当たるかと思うほど、深々と低頭した。  レイグルが玉座《ぎょくざ》を立つ気配がした。  そして、王の履くブーツが立てる固い音が、ジャギルに近づく。  彼は早くも自分の首筋に、魔剣の刃《やいば》が落ちる風斬《かざき》り音が聞こえる気がした。 「へ、陛下っ。なにとぞ! なにとぞ!」  すぐ目の前に、黒い靴が見えた。ジャギルは顔を上げる勇気も出ず、ただうわごとのように許しを請《こ》うた。  長い時間が経《た》った。ほとんど死を覚悟した頃、やっとレイグルの声。 「ジャギル、顔を上げてよい」  と言った。  同時に、マントをさばく音……王が身を翻《ひるがえ》して戻っていく気配。  た、助かったのか、わしは……本当に?  恐る恐る頭をややもたげると、レイグルは何事もなかったように玉座《ぎょくざ》に戻っていた。 「ジャギル」 「は、はいっ」 「おまえは文官としてはまだまだ使える男だ。故《ゆえ》に、今の失言は忘れてやる。俺の命令通りにしろ……いいな」 「はっ。た、ただちにっ」 「今感じている恐怖を忘れないことだな。忠告しておくが、次にくだらぬことを言えば、そっ首を刎《は》ねるぞ……」 「決して忘れません。決して」  ジャギルは再び、石床につくほどに、深々と頭を下げた。 「だといいのだがな」  素《そ》っ気《け》なく言うと、レイグルはふと独り言を洩《も》らした。 「レイン、おまえの力を見せてみろ。この俺を失望させるなよ……」  その声はあまりに小さく、老臣の耳には届かなかった。   ——☆——☆——☆——  レインが城主を務める、コートクレアス城の中庭——  一定の間隔を置いて設けられている四角い花壇の間を、ユーリは弾むような足取りで散歩していた。  ここへ来てから十日以上が経《た》っていたが、ユーリは違和感なく、城内に溶け込んでいた。  というのも、ここの騎士達はレインと同じく傭兵《ようへい》上がりが多く、堅苦しいのが苦手なユーリと似たような性格の者がほとんどで、馴染《なじ》みやすかったからだ。  まあ、セノアのような難儀《なんぎ》な副官もいるにはいる。だがユーリは、残るもう一人の副官レニの下につけられたので、直接彼女から被害を受けることはない。  レニも大変好意的だし、ユーリとしては特に文句もなかった。  ——レインが寝てばかりいることを除《のぞ》いては。  そう、あのレインは帰ってくるなり自室に閉じこもり、めったに外へ出てこないのだ。たまに顔を見せたかと思うと、食事をとるか酒を飲むかのどちらかで、見ていて腹が立つ。  今はそんな時ではないでしょっ、と思うのに。おかしな話だが、ユーリはレインがザーマインに対してなんの手も打たないことにイライラしていた。  これについてはセノアも同じ考えらしく、彼を見る目が日に日に憤《いきどお》りの色を増している。そのうちまた、豪快に切れるかもしれない。  ただ意外なのは、セノアは別として、ここの騎士達はみなレインを信頼しているらしいことだ。人気もある。  今回の戦を避けたレインの判断にしても、「それでよかった」と賛同する者がほとんどだった。元|傭兵《ようへい》がほとんどを占めるここの騎士達は、勝てない戦《いくさ》は避けるのが当然という意識があるのかもしれない。ユーリもそれは、わからないではないのだが…… 「ったく、人に気を揉《も》ませる奴よねえ」  独りごちたユーリは、顔をしかめて足下の石ころを蹴っ飛ばした。 「うん?」  どこからか歓声が聞こえた。  そちらの方へ目をやると、城壁のすぐ側《そば》に、騎士達の集団が見えた。どうやら円形になって、何事かやっているようである。  好奇心の強いユーリは、すかさずそちらへ足を向けた。 「あっ……レニ隊長」  人の輪の中心には、通常よりやや短めの、二振りの剣を手にしたレニの姿があった。部下の騎士と向き合っている。  どうやら剣の訓練中であるらしい。 「へえ。二刀流なんだ、レニ隊長」  少し感心して、人垣の外から見物する。  レニの相手をしている部下は、肩で息をしていて、なにか苦しそうだった。信じがたいが、どうもレニが押しているようだ。  ジリッ。  意を決したように鎧《よろい》姿の騎士が動く。身体を低くしてレニに近づき、しばしためらうようにレニを観察している。だが、レニはぼうっと立っているだけだ。  いける、と思ったのかどうか、その騎士はなかなか侮《あなど》れない速さで手にした剣をレニの首筋に叩きつけた。  キィィン!  澄《す》んだ金属音。  必殺の一撃は、レニの剣があっさり止めていた。そしてもう一本の剣は、ピタリと部下の喉元に突きつけられている。  うわっ、今の、見えなかったじゃない! この人、強かったんだぁ……  ユーリはびっくりして、レニをかなり見直した。ただの温厚な副官だと思っていたが、ちゃんと実力もあったようだ。 「よし、これで一巡したね。もうお昼だし、今日はここまでにしとくよ。では、解散っ」  レニが、短い金髪のわずかな乱れを直しつつ、号令する。 「うぃ〜すっ」  いかにも傭兵《ようへい》くさく唱和《しょうわ》し、元|傭兵《ようへい》達はたちまち散っていった。 「レニ隊長!」  ユーリが小走りに駆けて行くと、パッと顔を上げたレニが、満面の笑顔で迎えてくれた。 「わっ、ユーリちゃん! 見ててくれたの?」 「ええ。隊長って、強いんですねえ。感心しました」 「い、いやあぁ。それほどでも」  レニがデレデレと笑って赤面した。  と、さも名案っといった感じで手を叩く。 「そうだ、これから食事だけど、どうかな、一緒に。余分にあるしさっ」 「いただきます!」  丁度お腹がすいていたユーリは、元気に即答した。ただメシは断らない主義だ。 「ほんとにいいんですか?」  いくつか置いてあった木製のベンチの一つに、二人は腰をおろした。  礼儀とはいえ、とりあえずは言うべきセリフである。  で、同じベンチに座ったものの、ユーリはさりげなくレニとの距離を空《あ》けた。 「今日はね、サンドイッチなんだ」  なにがそんなに嬉しいのか、レニはニコニコと用意していた包みを広げる。割に大きな弁当箱を広げると、十分すぎる量のサンドイッチが詰めてあった。 「わあっ。では、遠慮なく」 「どうぞ、どうぞ」  言葉通り、早速手を伸ばしてつまむ。 「おいしいぃ!」  肉と野菜を挟んであったが、結構いけた。ユーリは頬に両手をあて、感激を表明した。 「ははは。どんどん食べてよ」 「ありがとうございますぅ」  しばらく無心で食事に専念する。  人心地がついたところで、微笑むレニにふと疑問に思ったことを尋ねた。 「そう言えば、さっきの訓練って、レイン将軍は参加しないんですか」 「ん〜? まあ、年に一、二回くらいかな、相手してくれるのは。普段は逃げてばかりだよ。めんどくさいからって」  ユーリの瞳を照れたように見返し、レニはつっと肩をすくめた。  なにかあきらめたような仕草である。 「いかにも、あの人らしいですね。……ちょっと訊《き》きたいんですけど、レニ隊長とレイン将軍って、どっちが強いんですか」  質問したとたん、レニが軽く噴《ふ》きだした。なにを言うんだい、といった顔をする。 「僕なんか将軍の足下にも及ばないよ。お話にもならない……比べること自体が間違ってるってば」 「へえ……そんなに強いんですか、将軍は」 「? ユーリちゃん、将軍とは知り合いじゃなかったっけ」  不思議そうにレニ。 「えっ。あ、いえ、お互いの父親同士は知り合いだけど、あたしと将軍は別に……」  冷や汗をかきつつ弁解する。  幸い、レニはすぐに納得してくれた。それどころか、一段と嬉しそうな表情になった。 「へええ、あ、そう。へへへ」 「あのう?」 「あ、ごめんごめん。えっと、将軍が強いかだね? そりゃもう、強いよ〜。自分で吹きまくっている以上だね」  思わず目を見開くユーリである。 「ほんとに——ですかぁ?」 「うん。とにかく僕、なにがあろうと絶対に、あの人の敵にだけは回りたくないね。まだザーマインの相手する方がましだな」  眉を寄せて、ブルッと震える。実感がこもっていた。  あいつ、そんなに凄いんだ……ユーリは内心で唸《うな》った。  しみじみした囗調でレニが続ける。 「案外あの人なら、ドラゴンでも倒せるんじゃないかな。倒した人がいるなんて聞いたことないけど、将軍ならやれそうだ」  おいおい、それはないわよ、とユーリは心中で突っ込みを入れた。  地上のあらゆる種族の中でも、ドラゴンはぶっちぎりの強さを誇っている。  その魔力、魔力無効化のフィールド、強力なブレス、圧倒的な筋力、どれをとっても他の生物には太刀打ちできはしない。まさに無敵だ。  昔から、「一対一でドラゴンを倒した者は、彼《か》の者が持つ力と魔力を手に入れることができる」という伝説がある。  それを真に受けて、太古の昔より、この最強の魔獣《まじゅう》に挑戦する者は後を絶たない。  しかし、実際に倒せた者は風の噂にも聞かない。ドラゴンスレイヤーは、吟遊《ぎんゆう》詩人の歌う、歌にしか存在しないのだ。  もしドラゴンを倒せる者がいるとすれば、それは千年以上も前に滅んだ「魔人《まじん》」と呼ばれる超種族くらいだろう。  人間と変わらない外見の、しかしすさまじい魔力と体力を持つあの魔人《まじん》達なら、あるいは魔獣《まじゅう》ですら敵ではないかもしれない。彼らは千年以上前に、人間達とこの世界の覇権《はけん》を争って滅亡しているので、真偽は不明だが。  信じられませ〜ん、てなユーリの表情が見え見えだったのか、レニは苦笑した。 「信じがたいのは無理ないけどね。そのうちユーリちゃんにもわかるよ、あの人の常識外れの強さが。人間離れしてるから、将軍は」 「はあ……」  ——そりゃ、強いのは否定しないんだけどぉ。  だけど、あたしは知ってるしなあ……ユーリは微《かす》かに首を振る。  レニがどう言おうと、世の中、上には上がいるのだ。ザーマインにいたユーリは、そんなとんでもない強者をその目で見ている。記憶を探るまでもなく、長い銀髪をなびかせた王の姿を思い出す。  処刑場に集められた無数の罪人、そして、彼らを前に立つレイグル王。  修練《しゅうれん》のつもりだったのだろうか、アレは。  とにかく、数十人もいた罪人達は、一人も残さず血の海に沈んだ。まさに……化け物だ。  どれほどレインが強くても、あの方には勝てない……あたしはそれがわかってるもん。  どんよりとそう考えていると、いきなり手にしたサンドイッチが消えた。 「はい?」  呆然としたのも束の間。  レニとユーリの間に、馬の長い首がぬっと突き出した。モシャモシャと口を動かしながら、やけに毛並みのいいその白馬は、さらに弁当箱に口を突っ込み、残りのサンドイッチをさらった。  すかさず、悠々《ゆうゆう》と咀嚼《そしゃく》する音。 「こ、この馬鹿うまっ。あんた、クリスねっ」  そうだよ、とは言わなかったが、クリスは横目で嘲《あざけ》るようにユーリを見た。  ……まあ、偶然に決まっているが。 「くっ——なんか、すっごいむかつくっ」 「やあ、クリス。相変わらずなんでも食べるなあ。馬とは思えないよ。これも食べる?」  レニが自分の手に持っていた一切れを差し出す。ささっとクリスがそれをさらい、たちまちサンドイッチは品切れになった。 「ちょっと隊長! なにを甘やかしているんですっ。第一、なんで馬が繋《つな》がれずにこんなとこにいるんですかっ」 「え。あ、ああ。クリスは厩舎《きゅうしゃ》に繋《つな》ぐなって、将軍の命令なんだよ。だから、いつも好き勝手に歩き回ってるんだ」 「なんでそんな命令を!」 「さあ」  レニがのほほんと首を傾《かし》げる。本人に悪気はないのだろうが、その「僕、わかんない」てな顔に、さらにむかっ腹の立つユーリである。 「将軍の言い分ではさ、クリスは俺の相棒でしかもペガサスだから、繋《つな》ぐのは失礼だってことだけど? でも、ペガサスなんてほんとにいるのかなあ」 「いるのかなあじゃありませんよっ」  だんっ、とベンチの背もたれをぶったたくと、ピシッとレニは背筋を伸ばした。 「ご、ごめん! そうだよね、ハハハ」  じろっと隊長を睨《にら》むユーリ。そのまま、すっくりと立ち上がった。  腰に両手を当て、なめた馬を眼光で射抜《いぬ》く。 「クリスっ。人様の昼ご飯を食べちゃった罪は重いわよっ。わかってんのっ」  全然相手にされなかった。  クリスは鼻から大きく息を吐き、そこらをざっと見渡す仕草をすると、もうメシは出てこないと見極めたのか、さっさとユーリに尻を向けた。  誰がなんと言おうと偶然に相違《そうい》ないが、フサフサしたクリスの尾がユーリの頬を勢いよく叩く。そしてそのまま、とっとこ駆けていってしまった。 「くっ。なんてヤな馬。主人に似たのかしら」  地団駄《じだんだ》を踏むユーリに、レニが消え入りそうな声で言った。 「でも、ユーリちゃんはなにも損してないと思うんだけど……」  ユーリはキッパリとその意見を無視した。  その頃、城の最上階にある自室のベッドに横になり、レインは天井を見つめていた。  部屋の中はとりたてて特徴はなく、城主の部屋にしては質素である。ベッドもごく普通の物で、貴族が好む天蓋《てんがい》つきの派手な物ではない。  部屋の真ん中には丸テーブルがあり、その上にはおびただしい数の酒瓶が置かれていた。  全てレインが飲み干したのだ。 「はあ、やれやれ」  レインはいきなりため息を吐《つ》くと、もう何度も読んだ手紙をもう一度広げた。レインが城に帰ると同時に、彼を追いかけるようにして届いたラルファスからの手紙である。  仰向けに寝そべったまま、その短い手紙を読む。 「むうっ」  やはり何度読んでも唸《うな》ってしまう。ラルファスの人のよさにあきれてしまってだ。  手紙の前半部分はいい。  いつものごとく、やれ深酒《ふかざけ》は避けろとか、はやり病に気をつけろとか、俺のお袋かよおまえはっ、てなことがつらつらと書いてあり、これは実にあいつらしい。  で、問題は後半だ。  時に、レイン。  おまえがどうやって王女様と知り合ったかは知らないが、この戦いが敗北に終われば、あのお方のお命も危なくなる。  親しい仲ならば、おまえの力でぜひとも王女様を守って差し上げてくれ。  それから……おまえ達の仲に口出しをする気はないが、王女様の年齢と立場をかんがみ、早まった真似(意味はわかるだろう?)は控えるように。いいな。 [#地付き]以上 「なにが以上だ、なにがっ」  レインはむっとして、手紙をサイドボードに放った。  わけのわからんことを言う奴である。だいたい、文面では王女の保護を頼んでいるようだが、そもそも王女など会ったこともない。  あいつはその王女とやらに俺が手を出すとでも思っているようだが、会ったこともない女に手を出すほど自分は見境《みさかい》なくないのだ。  第一、あのダグラス王のような暑苦しいおっさんの娘など、会わずともどんなシロモノか想像がつく。  勘弁してくれと言いたい。  ただでさえ貴族連中は好かないのに、よりにもよって王族とはっ。しかも、王の娘ときた! きっと、厚かましくて暑苦しくて家事も一切出来ず、威張り散らすしか能のない馬鹿女に決まっている。  レインは自分が知る限りの、神をも恐れぬ悪態をつきまくった。しかし文句を言いつつ、自分が必ずラルファスの頼みを聞き入れるだろうこともまた、わかっていたのだが。 「ま、いいけどな。ミシェールを助けるついでになんとかするか」  思いっきり愚痴《ぐち》った後、呟《つぶや》く。  脳裏《のうり》に、前に会った寂しげな美貌《びぼう》を持つ少女が浮かんだ。約束がある。あの子は必ず迎えにいかねばならない。  だが、今心配なのは、ラルファスである。なにしろあいつは、今頃は戦いの真っ最中かもしれないのだ。  この時点で、明らかに計算に狂いが生じている。ザーマインはどうやら、思ったより自分を警戒していたらしい。ユーリによれば、レインには数え切れないほどの監視の目がつけられているそうだ。  これでは無理にここを抜け出せば、たちまちザーマインの本隊に連絡が飛ぶだろう。それではかえって相手を警戒させ、ラルファスを助けられなくなる。  レインを利用するだけだったダグラス王がどうなろうと知ったことではないし、死んだとて胸も痛まないが、あいつだけは助けないといけない。 「寝覚めが悪いからな。ただそれだけだ」  自分を納得させるように、レインは呟《つぶや》いた。  とにかくあいつには、随分と借りがある。頼んだわけではないが、これまで何度も怒り狂った王に取りなしてもらった。  レインも、一度だけラルファスの命を救ったことがあるにせよ、まだずっと借りの方が多い。  なのにあの男は、ことあるごとにその一度きりの出来事をレインに謝《しゃ》し、「あの時は言葉に尽くせぬほど世話になった。私は決して忘れないぞ」などと言う。  なんというお人好しな奴だろうか。  お陰で、助けるこちらは大苦労である。  大前提《だいぜんてい》として、ラルファスは絶対に故国サンクワールを見捨てない、というのがある。  それはつまり、あいつを助けるためには、大国ザーマインを退《しりぞ》ける他はないということを意味するのである。  なにしろ、例え一人になっても平気で数万の大軍を相手取ろうとするような、そういう無駄に熱い奴なのだ、あの馬鹿は。 『ギュンターの奴、うまくやったかな?』  自分が動けないもどかしさに、レインは歯ぎしりした。ひょっとすると、わざと謹慎《きんしん》を食らったのは間違いだったかもしれない。  いくら不利になろうとも、やはりあの馬鹿たれ王についていくべきだったか。 「フィーネ……俺は判断を誤ったかなあ」  と、レインが小さく声にしたとたん。  ババンッ!  シャレにならない勢いで、ノックもなしに扉が開いた。いや、蹴り開けられた。  首を巡らすと、両足を開いて戸口に立ちはだかるユーリがいた。 「ちょっとおっ」  ビシッと人差し指をレインに突きつける。 「フィーネって誰よっ」 「……え?」 「『え?』じゃないわよ、『え?』じゃっ」  ブラウスにスカート姿のユーリは、ずかずかと部屋へ入り込むと、レインの寝るベッド脇に立つ。どっちが主人かわからない。  一気にしゃべり出した。 「だいたいあんた、そんな態度でいいと思っているわけ? いつまでもからっぽの酒瓶みたく寝ころんでばかりでさ、しゃきっとしなさいよ、しゃきっと。ダレすぎよっ。そんなことだから謹慎《きんしん》なんか食らうのよっ。それに、あんたのなめた馬鹿うまときたら」 「だああっ! やっかましいっ」  ほっとくといつまでも続きそうな罵倒《ばとう》を、レインは起きあがりざまに遮《さえぎ》った。 「俺は今、神聖な考え中なんだよっ。おまえの相手してる暇ないんだ。俺に会いに来るのなら、重要極まりない用件の時か、下着レスでスケスケの服を着ている時にしろ!」 「なにを言ってんだか——寝るなっ」 「うるさい奴だな」  またシーツの上に倒れ込もうとしたレインは、頭をかきながら渋々と起きあがった。  ベッドに横座りをし、突っ立つユーリに目をやる。 「んで、なんの用だ。だいたい、気配でわかってたけど、なにを人の部屋の前で聞き耳立ててるんだよ、おまえは」 「ふふん、聞かれて困ることなんかなにもないくせに。私はね、気合いを入れてあげに来たのよ。あ、それと、フィーネって誰よっ」 「……いっぺんに並べんなよ。それに、わけがわからんぞ」  レインはやる気なさげに指摘し、それからふと思いついてにんまりした。 「な、なによ。その薄気味悪い笑いは」  ユーリが嫌そうな顔で後退《あとずさ》りする。 「いや、たいしたことじゃないんだが。おまえさ、その黒髪と瞳の色からして、出身はサンクワールの平民だろ?」 「……だから?」 「単刀直入に言うが——。おまえ、こっちに寝返らないか」  ユーリは息を呑み、薄緑の瞳を瞬《またた》いた。なんともいえない顔で、レインを見返す。脈がありそうだな、とレインは思った。 「おまえだって生活のために、嫌々やってんだろ。この国は平民に厳しいからな。でも、俸給《ほうきゅう》さえ良ければ、なにも敵側につくことはないんじゃないか」 「それは……まあ。あたしだって、決していい気分じゃなかったし」 「そうだろ、そうだろ。だからどうだ、月に銀貨二十枚で手を打たないか?」 「二十枚ってことは……五万タラン? ん〜、もう一声」  大きく身を乗り出すユーリ。 「じゃあ、銀貨二十一枚」 「あんたね、刻《きざ》み方がセコいのよっ。男でしょ、もっとババンッといきなさいよ!」  レインはしかめっ面《つら》を作り、首を振る。 「馬鹿。城主は常に節約を考えないといけないんだよ。——銀貨二十五枚でどうだ?」 「高価な酒をガバガバがぶ飲みする奴が、なにを言ってんのっ。あたしの妹……じゃなくて、弟の学費も考えてよ!」 「男なんざ、知るかっ。じゃあ、おまえの女としての将来性を買って、銀貨三十枚っ! 持ってけ、泥棒っ」 「乗った!」  ユーリは目を輝かせて手を叩いた。  ぐぐっとレインに詰め寄る。 「ほんっとに銀貨三十枚、月にくれるのね」 「ああ。その代わり、ちゃんと働けよ」 「うん! 良かった〜。これで妹——ううん、弟に嘘つかなくてすむわっ」  小躍りして喜ぶユーリ。どうやら生活のために、肉親に嘘をついて間諜《かんちょう》を続けていたらしい。さぞかし後ろめたかったのだろう。 「あ、でも——」 「どした?」 「もしあたしが申し出を断っていたら……あんた、どうするつもりだったの」  かわいらしく小首を傾《かし》げるユーリ。  レインは極悪な笑いを浮かべた。 「ザーマイン本国に、ユーリは寝返ってこっちにつきましたよ、て教えてやるね。そしたら、そんな事実がなかったとしても、向こうはもうおまえを使わないだろ。嫌でもこっちにつくしかない」 「……ど畜生か、あんたは」  あんぐりと口を開けるユーリ。  まあな、と悪びれずにレインは胸を張った。  と、その時。  部屋の中央付近でいきなり光が明滅し、一つの形を取り始めた。  マジックビジョン? とユーリが尋ねる。  レインが答える間もなく、その光は収束《しゅうそく》して、一人の目つきの鋭い男の形を取った。  もちろん、その本人は遙《はる》か遠くにいるが。 「……誰、あの思いっきり不機嫌そうな、人生に悩んでるっぽい人」 「後だ、後っ。これは大事な報告なんだ」  レインは鋭くユーリを制した。  時間的に見て、ラルファス救出の件に違いあるまい。 「ご報告いたします、レイン様」  その考えを裏付けるように、わずかにぶれるギュンターの像が、レインに恭《うやうや》しく一礼した。   ——☆——☆——☆——  王宮の奥深くの庭園で、シェルファは一人ぼっちだった。  ガルフォート城は現在、静寂に包まれている。昨日までは逃げる算段《さんだん》をする者達で騒がしかったが、今やほとんどの者が逃げ散ってしまい、人の姿をあまり見ない。  庭園の端の、小さい池のほとりに立つ木にもたれ、シェルファは水面を眺めている。  お気に入りの場所である。  いつも静かな所なのだが、今日は特に物音一つしない。  頭上に張った木の枝が、風でごく微《かす》かに揺れる音がするくらいだ。  今は昼時だというのに、人々の会話の声や喧噪《けんそう》の音など、その種のざわめきが少しも聞こえてこない。 「このお城、本当にからっぽになっちゃったんだわ」  シェルファは呟《つぶや》いた。  理由もわかっている。一昨日《おととい》、マジックビジョンで敗戦の報が重臣達に伝わったからだ。  彼らは最初は信じようとせず、だが詳しく報告を受けるにつれ、例外なく絶望に呻《うめ》いた。  従軍した上将軍《じょうしょうぐん》達はラルファスを除き、全員が戦死。しかも、父王さえも裏切りにあって殺されたらしい。  その報告には、厳重な箝口令《かんこうれい》が敷かれたが、瞬く間に噂が広がっていった。  人の口を封じることは出来ないものなのだ。  噂によると、どうやら丞相《じょうしょう》を初めとする重臣達は、「あのガノア殿がまさか!」などと言っていたそうだ。  シェルファにすれば笑止《しょうし》である。  彼女は昔から彼が嫌いだった。しかも最近は、たまに顔を合わせるとねっとりと嫌な視線で自分を見るので、増々、大嫌いになっている。  侍女《じじょ》からガノアが裏切ったと聞き、ああ、やっぱり、となんの違和感も覚えなかった。  あの人ならそんなことをしそうだ。  父に見る目がなかったのだろう…… 「お父さま……」  そっとため息を吐《つ》き、シェルファは亡き父の顔を思い出そうとした。  だが記憶がぼやけ、どうしてもよく思い出せない。父親はシェルファにほとんど会おうとせず、一年に一度くらい顔を合わせればいい方だったからだ。  たまに会えば、嫌悪の目で見られた記憶しかない。話した憶えすらほとんどない。  正直、シェルファは彼が死んだからといって、あまり悲しくもなかった。わたしは冷たいのかもしれない、と多少は落ち込んでいたけれど。  レインに会いたい……  そんな思いが、シェルファの心のほとんどを占めていた。レインが生きていてくれて、心底ほっとしている自分がいる。  三年前、シェルファは初対面だったレインの優しさに触れ、彼に心を開いた。  独りぼっちだったシェルファはあの日以来、自分がもう一人ではないと信じることが出来たのだ。  もちろん、あの日の出来事は片時も忘れたことがない。  瞳をそっと閉じる。  たちまち、懐かしい記憶が蘇った……   ——☆——☆——☆——  ガルフォート城の裏手にある広々とした庭園は、シェルファの数少ない『お気に入りの場所』の一つである。  季節ごとに大量の花が花壇を彩り、奥の小さな池のほとりには、水面に向かって長く枝を伸ばしたジュラの木が生えている。  シェルファの唯一の楽しみは、ここで一人で絵を描くことなのだ。  その日は、「ぶとうかい」とやらで、家庭教師が彼女を早々に解放してくれたため、いつもよりずっと長く、好きな絵に取り組めるはずだった。  晩夏とはいえ、まだまだ眩《まぶ》しい日差しに目を細め、シェルファはトコトコと歩いて、いつも来るジュラの木の根本に腰掛けた。さすがに日陰はだいぶ涼しい。豪奢《ごうしゃ》な金髪を背中へと払ってから、画板を膝の上に置き筆を手にする。ちょっと小首を傾《かし》げた。  きょうはなにを描きましょうか……風景はもうなんども描いたし……  ではきれいな鳥でもと思ったが、辺りには一羽も見当たらない。  しばらく迷い、何となく今日は人物像を描くことにした。  もちろん、城内の誰かをモデルにする気はない。一人でいるのが当たり前のシェルファにとって、他人と関わりを持つのは苦痛以外の何ものでもないのだ。それに、描きたい人も特に居はしない。  唯一の例外は三年前に亡くなった母だが、描けばつらくなるだけなのでやめておく。  代わりに、想像の人物を描くことにした。ちょうどこのところ、シェルファは見知らぬ男性の夢をよく見るのだ。  おぼろげに脳裏《のうり》に浮かんだ男の人を、シェルファは熱心に描き出した。  いつにもまして、筆がなめらかに紙の上を滑っていく。  うん、いい調子……なぜかしら、自然に手が動く感じ……こんなこと、はじめて。  ところが、しばらく夢中になって絵に取り組んでいると、どこからか人の声がしたような気がした。  はっとして手を休めた。  気のせいではない。  やはり声がする。それも歌声だ。  男女の恋愛模様について、誰か男の人がおそろしく下手くそな歌を口ずさんでいた。しかも、段々こちらへ近づいてくる。  と、ふいにその歌声が小さくなった。近くに人がいることに気づいたのかもしれない。それでも歌うのを止めたわけではなく、相変わらず接近してくる。  いつものシェルファだったら、こんな時はすぐに姿を消すことを考えるはずだった。他人と顔を合わすのがたまらなく嫌だからだ。  どうせ気まずい思いをするくらいなら、さっさと逃げた方が楽である。  だがこの時は、なぜかそんな気になれなかった。  理由はわからない。  歌声の主が、あまりにも堂々と気持ち良さそうに歌っていたのに(下手だが)惹《ひ》かれたせいかもしれないし、その低音の効《き》きすぎた声が気に入ったせいかもしれない。後になって考えても、シェルファ自身にもよくわからなかった。  いずれにせよ、逃げる機会は失われ、問題の人物は花壇の向こうから姿を現した。  一目見て、シェルファは真っ青な瞳を見張った。 「おっ!」  機嫌良く歌っていた歌を止め、男はまじまじとシェルファを眺めた。  黒いシャツに黒いズボン、しかも黒髪|黒瞳《くろめ》の黒ずくめの格好で、かなりの長身である。  彫《ほ》りの深い精悍《せいかん》な顔つきに、鋭い目つきをしている。ただその目の奥に、どこか悪戯《いたずら》好きな子供のような光がチラチラしていた。  見知らぬ男の人だった。……現実には会ったことがないという意味だ。  驚いたことにこの男の人は、たった今絵に描いていた人物そのままであり、つまり、シェルファが最近よく夢で見る、まさにその人だった。 「ううむ、こりゃ色々と意外だな。おいチビ。おまえ、無茶苦茶きれいだなあ」  シェルファの気も知らず、彼は底抜けに明るい声を張り上げた。  チビと言うのは多分、自分のことだろう。そんな呼ばれ方をしたのは初めてだが、不思議と腹は立たなかった。  きれいだと誉《ほ》められたせいかもしれない。  男の言い方には、よく聞かされるおべっか的な調子はみじんもなく、心からの賞賛が込められていた。だから悪い気はしなかった。 「俺はレインというんだが、おまえは」 「わ、わたくしですか……」  まさか名前を聞かれるとは思わなかった彼女は、ちょっと慌《あわ》てた。そういえば、この男の人はどうやってここへ来たんだろう。王家に関わりのある人以外はここへは来れないはずなのに。 「どうした? 名前くらい教えてくれてもいいだろう」 「はっ、はいっ。あの、わたくしはシェル——いえっ、ミシェールと申します」  とっさに、心の奥で閃《ひらめ》いた名前を名乗る。  なぜかシェルファは、正直に名乗る気にならなかったのだ。思えばこの時すでに、レインに心を奪われていたのかもしれない。  自分がサンクワール王家の一員だなどと告白して、会ったばかりのレインに敬遠されたくない。  せっかく親しげに話しかけてもらえたのに、その雰囲気を壊したくなかった。 「ほおう、ミシェールか。うん、なかなかかわいい名前だな。やっぱり外見がかわいいと、名前もそれなりだな。だけど……さっきの気配は……ま、いいか」  レインはちょっとだけ考え、しかしすぐに、うんうんと一人で頷《うなず》いた。そしてシェルファに興味を覚えたのか、腰からこった造りの柄《つか》が目立つ長剣を外し、目の前にしゃがみ込む。 「で、歳は? 十二歳くらいかな? ちなみに俺は二十二だ」 「十三歳になったばかりです」 「そうかそうか。ここで会ったのも何かの縁だ。よろしく頼むぜ、チビ」 「はい。あの……こちらこそ」 「おう。で、こんなとこでなにしてたんだ」  それはこちらが訊《き》きたいことなのだが、シェルファは素直に伏せていた画板を掲げて見せた。誰かに自分の描いた絵を見せることなど、ついぞなかったのに。 「え……こりゃ俺の似顔絵じゃないか。へえっ、おまえ、これなら絵で飯が食えるぞ。うまいもんだ」 「飯がくえるって、どういう意味ですか?」 「生活が成り立つってこった。それよりおまえと俺、どこかで会ってたか。おまえの顔は滅多に忘れないと思うんだがなあ」 「レインさまとお会いするのは、今日がはじめてです」  シェルファはそう答え、この場所でよく一人で絵を描いていること、今日に限って人物画を描く気になり、しかもどうしてだかレインとそっくりになってしまったことなどを説明した。  ……夢でレインの姿を既に見ていたことは、恥ずかしいので黙っておいた。  聞くとレインは首をひねり、 「それはあれか、全くの偶然ってことか。にしてはやけに俺そっくりだな」 「はい……不思議です」 「ふうむ」  レインは急に空を見上げ、なにやら悩みだした。  しばらくして、大真面目な顔でとんでもないことを告げる……重々しい声で。 「もしかすると、これは運命かもしれん」 「運命?」 「そう、運命だ。ディスティニーだ。おまえと俺は、将来ただならぬ関係になる——やもしれん」 「たっ、ただならぬ関係って、あの?」 「つまり、想《おも》い人とか恋人ってこった」  ふざけている様子ではなかった。  たちまちシェルファは真っ赤になってしまう。言葉の内容も内容だが、自分が決して嫌がっていないことに内心あきれていた。  この人とはまだ会ったばかりなのに。 「何だよ、その渋い顔は。貴族だもんで、身分差を気にしてんのか」 「えっ、ど、どうして貴族だと」 「あのな、金髪に青い目はこの国の貴族の印みたいなもんだろ。特に白目の部分まで青いその目は、えらく目立つもんな」 「あ、そうですね」 「まあそれはいいとして……俺とじゃ嫌か。おまえもやっぱり身分差は絶対ってクチか。平民なんか軽蔑《けいべつ》してるとか?」 「いいえっ。そんな……わたくし、むしろ貴族なんて嫌いです……」  シェルファは悲しげに顔を伏せた。  本音だった。  どうせ自分は、お父様の目には政略の道具くらいにしか映ってやしないのだ。適齢期《てきれいき》になれば他国に嫁《とつ》がされる、単なる道具。  それ以上の物ではない。だからこそ、誰からもまともに相手にされないのだろう。  お母様が亡くなってからは、お父様も一段と冷たくなったもの。 「おいミシェール」  突然、レインの大きな手が、シェルファの頬を暖かく挟み込んだ。 「あっ」 「子供がそんな顔しちゃいかんなあ」 「レインさま?」 「レインと呼び捨てでいいって。とにかく、そんな顔はよせ。なっ」  囁《ささや》くような、優しい声だった。  自分の頬を撫《な》でてくれる、大きな手——  そこから伝わるぬくもりが、ゆっくりと心の中にまで染みこんでくる気がした。  こんな風に呼びかけてもらえたのは、お母様が亡くなってから初めてのことではないだろうか。  シェルファは危うく涙ぐみそうになった。  それを悟られまいと無理に唇を引き結び、早口で尋ねた。 「レイン……は、どうしてここへ」 「ああ。俺は百人隊長でね。この前の戦《いくさ》でちょこっと戦功《せんこう》を立てたんだが、信じられるかチビ? その恩賞《おんしょう》が舞踏会《ぶとうかい》へのお誘いときた。全く、んなことするくらいなら、身分を上げてくれた方が有り難いっての。付き合ってられなくてな」 「ああ、それで抜け出してここへ来られたのですね」  シェルファは頷《うなず》いた。同時に、この人はよほど優秀な騎士さまなんだなと思った。  あの身分にうるさいお父様が、貴族でもないのに騎士隊長に据えているのだから。  と、レインが今度は、シェルファの頭に手を置いた。 「で、おまえは?」 「わ、わたくしは、いつもここで、お絵かきをしているので……」 「ふーん」  レインは訝《いぶか》しそうに顔をしかめ、シェルファをじいっと見つめた。  もしかして自分の身分がわかってしまったのだろうか。  不安に包まれる……しかしレインが指摘したのは、全く別のことだった。 「それっていつも一人ってことか」 「ええ。一人が好きなんです」  ほっとして答えると、レインは力を込めて、 「そりゃいかん! たまには一人もいいかもしれんが、いつもはだめだ!」 「そう……でしょうか」 「そうなんだよ。よしっ、幸い今日は俺がここにいる」  レインはいきなり勢いよく立ち上がり、シェルファに向かって手を差し出した。 「俺も舞踏会《ぶとうかい》なんぞより、未来の嫁さん候補の方が大事だ。できれば今じゃなく、十年後くらいに会いたかったけどな」  ニッと笑う。いつの間にか恋人候補から昇格していた。シェルファはとまどい、レインを黙って見上げた。 「わからないか? 一緒に遊ぼうぜっていってんだが。こう見えても俺は、ガキの頃は娯楽の殿堂って呼ばれてたんだぜ」 「わたくしを誘って下さるのですか」 「他に誰もいないだろ。ほらっ」 「でもわたくし……」  反射的に断ろうとして、シェルファは思わず息を呑んだ。  この男の人、なんてすんだ目をしているんだろう……透《す》き通《とお》るような、深くて黒い瞳。  それに、優しい目で私を見てくれる……とてもとても……かつてのお母様よりも。  見つめているうちに、ためらいが陽の下の雪のように溶けていった。 「よろしい……のですか?」  拒否する代わりに、シェルファは小さな声で尋ねた。 「……このようなわたくしを、ほんとうにお誘い下さるのですか?」 「ああ。おまえは嫌なのか」 「いいえ、レインさま。いえ、レイン。どうかよろしくお願いします」  シェルファは、とうに忘れていたはずの輝くような笑顔を浮かべ、差し出された手を自分から握りしめた。   ——☆——☆——☆——  あれから三年も経《た》っているとは信じがたい。  まだ昨日のように覚えている。  同じこの場所で、あの日。  お昼はレインが持っていたパンを二人で食べ、シェルファは夕刻になるまでレインに遊んでもらった。  教えてもらった遊びはほとんどが男の子の遊びらしいが、それでもシェルファは十分楽しかった。  レインの陽気な笑顔を見、時折優しく頭を撫《な》でてもらえるだけで、なにも不足はなかったのだ。  シェルファが飛んだり跳ねたりする度に、注意深く見守ってくれる黒い瞳。たまにつまずいて倒れたりすると、すかさず差し出される、温かい大きな手。  今のこの時がずっと続けばいい、シェルファはそう願った。  しかし、幸せな時間はいつまでも続かなかった。陽が傾き、レインが戻らねばならない時間が来てしまったのだ。 「さあて。そろそろ帰らないとな」  言われて、シェルファは凍りついたように立ち尽くした。  また明日から一人になる……その事実が小さな胸を押しつぶしそうになる。  それだけではない。シェルファはもう気がついていた。  自分がレインに恋していることを。  いつまでもこの人の側《そば》にいて、この人の笑顔を見ていたい。出来れば優しく抱き締めていてほしい。  だから、シェルファは頼んだ。 「わたくしも、連れていってください!」 「おいおい、ミシェール」 「わたくし、ここに残りたくないです。もうさびしいのはいや。レインと……レインといっしょにいきたいです!」 「んなこと言ったってなあ。俺に子連れで旅に出ろって言うのかよ」  困ったなあという表情でレイン。  しかしシェルファの思い詰めた様子を見て心を動かされたのか、うーんと唸《うな》り、しゃがみ込んで考え始めた。  自分が無茶なお願いをしているのは、シェルファとてわかっていた。  けれど、レインへの想《おも》いはまぎれもなく本物であり、「お願い」も本気そのものである。  シェルファは、純粋な気持ちで求愛していた。そう、全てを投げ捨ててレインについていこうとするほどに。 「わかった。では、こうしよう」  なにを思いついたのか、レインが立ち上がって、ゴソゴソとズボンのポケットを探った。そして、鎖を通してペンダントにした、古い銀製らしきコインを取り出す。 「これをおまえにやる」 「これは?」  シェルファが見たところ、そのコインの表面には、びっしりと見たことのない文字が彫《ほ》り込《こ》んである。  コイン自体はかなり古く、年期の入った色艶《いろつや》をしていた。 「なんて読むのですか、この文字」 「ああ、これは魔法の品でな、『私をあの人のもとへ』って書いてあるのさ。もうずっと、ずうっと昔に滅んだ王国の代物だ。まだ聖戦で魔法使いが激減《げきげん》する前のな。ほんとだぜ」 「これが……」  シェルファはすっかり感心して、コインに見入った。魔法はなくなったわけではないが、今ではいにしえの昔とは、比べようもなく廃《すた》れてしまっている。  半永久的に魔法が発動する武器や品物などほとんど見かけないし、もしあったとしたら、すごい値打ち物である。 「俺が大陸北部地方を旅していた頃、古代の遺跡《いせき》で見つけたんだ……本当なんだからな! 二つしかないんだが、一つおまえにやる」  妙におごそかな口調で言うと、レインは自らシェルファの細首に手を回し、コインをぶら下げてくれた。  着け終わると、シェルファの両肩にそっと手を乗せ、その瞳をまっすぐに覗き込む。 「よく聞いてくれ、ミシェール。俺は、今はまだやらきゃいけないことがある。だから、おまえをすぐに連れてはいけないんだ」  途端に口を開いたシェルファを目で制し、レインは続けた。 「あと五年、五年でいいから待ってくれ。その頃には俺の気持ちも収まって——いや、用もすんでいるだろうし、おまえももう、大きくなっているだろう。だから、五年後の今日まで待て。その時にチビ、おまえの気が変わっていなければ、望み通りどこまでも連れていってやる」 「レイン……」  どれほど抗議したかったことだろう。  五年も待てません……出来ればそう言いたかった。  でも、レインの言い分が正しいともわかっていた。用とやらもあるだろうけど、いきなりこんな小さな自分を連れていけというのが無理なのだろうから。  だからシェルファは、努めて表情を動かすまいとした。  レインを信じ、待つ決心をしたのだ。笑顔で頷《うなず》くつもりだったし、実際そうした気でいた。  しかし、彼女よりずっと大人であるレインには、シェルファの内なる思いは見え見えだったらしい。  すうっと微笑み、頭をぽんぽん叩く。 「そんな悲しそうな顔をするなって」  優しい声で言い聞かせる。 「だからこそ、このコインだ。効力は一度だけだがな、何かの事情でどうしてもおまえが待てなくなった時に、これを使うといい。使い方は簡単。コインをしっかりと握り、俺の顔を思い浮かべながら、大声でレインっと名前を叫ぶ。すると——」 「すると?」  大きな期待を込めてシェルファ。 「——魔法が発動《はつどう》して、この俺がどこにいようと、一瞬でおまえの身体は俺の元へ転移《てんい》する。絶対に本当だぞ」  しっかりと保証するレイン。  ああっと声にだし、シェルファは胸元にぶら下がった汚いコインを握りしめた。  これがあればいつでもレインに会えるっ。いつでも、どこでも。 「あー、ミシェール。おまえ、今にも使いそうだが、それはいざって時のためにとっておいた方がいいぞ」  レインは一転して、大喜びするシェルファになぜか早口で忠告した。 「俺だって、都合があるしな。用を足している時とかならまだしも、どっかの女の子とよろしくやっている時に上からおまえが降ってきたら、さすがにシャレにならんもんなあ」 「そんな……」  チクリとシェルファの胸が痛む。  言葉の意味はわからないまでも、どっかの女の子というセリフに反応したのだ。  レインにすっかり心を奪《うば》われている証拠だ。 「でもわかっています、レイン。これをわたくしにくださったのは、心の支えとしてこのコインを使え、という意味なのでしょう?」 「思った通り、おまえはかしこい奴だ、チビ。切り札は最後までとっとくのが正解だ」  レインは満足そうに笑い、大きく頷《うなず》いた。 「おまえなら待てるよ。五年くらい、すぐだしな」 「……はい」  そう、待てるかもしれない。  このコインさえあれば。  レインはじっとコインを握るシェルファを見やり、温《あたた》かい微笑みを浮かべると、しゃがんでシェルファと目を合わせた。 「チビ。今日、おまえは随分と俺を感激させてくれたよ。だからその礼に、チビに俺の秘密を教えてやる。聞きたいか」 「はい、もちろんです!」 「よし。じゃあ、おまえだけに話してやろう」  レインの声が、やや低くなった。 「実は俺は、この世に怖い物がなにひとつない。なぜだかわかるか?」 「勇敢《ゆうかん》だから、ですか」 「違うね。そんなお偉い理由じゃない。昔にあったある事件のお陰で、恐怖を感じる神経が焼き切れてしまってるのさ。多分な」  そう言うと、ゴクリと喉を鳴らしてから、レインは語り始めた。 「俺はな、昔……お、俺は故郷で……」  信じられないことが起こった。  レインの黒い瞳が揺らぎ、その奥に、恐怖としか言いようがない影がちらついた。  常に不敵な笑みを刻んでいた唇が震え、色を失っていく。  なにかわからないが、レインの心中で激しい葛藤《かっとう》が起きているのは間違いなかった。明らかに恐怖が、その心を蝕《むしば》んでいる。  このレインが怯《おび》えるなんて!  そう思った途端、シェルファは手を伸ばしていた。 「まってくださいっ」  はっとしたようなレインの顔。  シェルファはレインの手をきゅっと握りしめ、我ながらしっかりした声で囁《ささや》く。 「……レイン、つらそうだから、悲しそうだから……今は聞きたくないです。いつか話せる時が来たら、その時に——わたくし、待ちますから」  ピクリとレインの頬が震え、ほっと息を吐く気配。レインはしばらく自分の頬をシェルファに預けてから、ゆっくりと身を離した。 「全く……おまえは優しい奴だな、ミシェール。ヤバいな、将来は本気で惚《ほ》れそうだ」  手を離し、レインは立ち上がった。  その口元には、いつもの不敵な笑みがよみがえっていた。 「そろそろ行くよ、チビ。約束は必ず守るからな」 「最後のおことばは無用です。わたくしは、レインを信じていますから。五年後の今日、ここでレインを待っています」  無理してにっこりと笑い、シェルファはレインを見上げた。  レインは、破顔《はがん》して頷《うなず》き、片手を上げてシェルファに背を向けた。  黒々とした長身が、振り返ることなく薄闇の中を去って行く。その姿がすっかり視界から消えた後も、シェルファは長い時間、その場を動かなかった。  ——レイン。いつか、さっきのお話をきちんと聞かせてくださいね。わたくし、ずっと待っていますから。ずっとずっと。   ——☆——☆——☆——  あの時レインと別れてから、長い時を経《へ》た。  本当に長い、長い三年だった。  私はあの後、何度後悔したことだろう。  どうして無理にもついて行かなかったのか……それに、どうして名前のことで嘘なんかついたのか、と。  シェルファは木の幹に背中を預けたまま、波一つない池の水面を見つめた。  レインに嫌われたくなかったからこそついた嘘だが、今ではいたく反省している。今度会った時、レインは笑って許してくれるだろうか。  今度……今度とは、一体、いつのことだろう。  レインに会いたい……切実にそう思う。今すぐ逢《あ》って、あの優しい笑顔をもう一度見たい……そんな耐《た》え難《がた》いほどの思いがある。  どのみち、もう待つのは不可能だった。  ガルフォート城は今はほとんどの味方に見放され、後はザーマインの侵略を待つばかりのありさまだ。  現に今朝は、シェルファ付きの侍女《じじょ》や他の使用人は、誰一人顔を見せなかった。  おそらく、みんな逃げてしまったのだろう。  シェルファは例によって、誰からも忘れられているようだった。母が死んでから、今日までずっとそうだったように。 「レイン……」  胸元からコインのペンダントを抜き出し、シェルファはその汚い表面を指で愛《いと》しげに撫《な》でた。  彼の名を呼び、このコインにチャージされた古代魔法を発動《はつどう》させさえすれば、自分はいつでもレインの元へ行ける。  その事実|故《ゆえ》に、この古い銀貨はレインと別れてからの私をずっと支えてくれた。  シェルファはじいっとコインを見つめた。  これを今使えば——  思わず大きくレインの名前を呼びそうになる。それだけであの人の所へ行ける。  だが——シェルファはこれまで常にそうしてきたように、今日もまた、大事な宝物を胸元に落とし込んだ。 「切り札は最後まで取っておくもの、でしたね。レイン、わたくしはあなたの忠告にしたがいます」  自分に言い聞かせるように声に出し、シェルファはもたれていた木から身体を離した。  ずっとお気に入りだった広い庭園を、記憶に留《とど》めるように眺め渡す。  美しい花が咲き乱れる花壇、透き通った水をたたえた池、そしてその畔《ほとり》に立った、一抱えもある大きな幹を持つ、薄茶色のジュラの木。  ついに時が来た。私がここに戻ることは、もうないのかもしれない。  しかし、それでもシェルファは安息の地に背を向けた。レインに会えるのなら、他のなにを犠牲にしたとて悔いなどない。 「厩舎《きゅうしゃ》に、わたくしを運んでくれる子が残っているといいのだけれど」  コートクレアス城までは、昼夜を問わず走れば馬の足で二日くらいで着くだろう。  レインと会う時のために、着替えは持参するとして……なるべく動きやすい服装をしないと。  私室へ戻り、最小限の準備を整えてから、急いで廊下へ出る。  ——と、シェルファと同じ年頃の少女が、なにやらおろおろした顔でこちらへ来るのに出くわした。  黒髪に白いカチューシャを飾った、城内に住み込みで働いているメイドである。  彼女は途方に暮れたような足取りでやってきて——シェルファを見た途端、安堵《あんど》したように立ち止まった。 「お、王女様……よかったぁ、まだいらしたのですね」 「リエラ……さん? 今頃、どうしたのですか」  仲が良いとまではいかないが、唯一、普通に話せた少女である。  自分などより、よほどしっかりした人だと思っていたのに、今は泣きそうになっていた。 「あ、あたし、どうしたらいいかわからなくて……。昨日まで指示を出していてくれた女官《じょかん》の人達も、みんなどこか消えてしまったし。……あの、敗戦がどうのって噂、本当だったんですか?」  どうやら、噂は広がっているとはいえ、まだメイド達の全てに知れ渡ったわけではないらしい。  シェルファは努めて冷静な表情を保ち、頷《うなず》いて見せた。 「……ええ、本当ですわ」 「——! そんな」  さあっと青ざめるリエラ。  城に住んでいるのも同然の彼女としては、聞き流せる話ではないだろう。  とその時、廊下の向こうからどたどたと走る音がした。宮殿内で駆け足なんて——  二人はハッと顔を見合わせ……先にシェルファが反応した。  機転《きてん》を利《き》かせ、正面の侍女《じじょ》の部屋を開ける。 「さあ、ここへっ」  リエラの手を引くようにして中へ入った。  恐怖の悲鳴を洩《も》らしかけた彼女を、とっさに抱きしめる。  ——数秒後、複数の足音がシェルファの私室の前で立ち止まった。無遠慮にドアを開ける音がして——直後、ひそひそ話す声。聞き覚えがある……これは、顔だけは見知っていた文官達の声だ。 『おい、いないぞ!』 『そんな馬鹿な……あのか弱い王女が、一人でどこに行けるというんだ?』  少女二人は、至近《しきん》から顔を見合わせた。  そのまま互いに抱き合っていると、リエラの震えがこっちにまで伝わってきた。  シェルファは慰《なぐさ》めるように、彼女の背をそっと撫《な》でる。  本当は、自分の方こそ怖いのだ。だが今は、かえって覚悟が出来てしまっている。  なんとしてもここを出ねばならないのだ、私は! 『とにかく……早く探して確保しないと』 『うむ。敵——いやっ、ザーマイン軍が来た時にそれなりの手みやげがないと、我らの方が危うい』 『わかったら、他を探すぞ!』  応じる声が幾つかし、また声が遠ざかっていく。  抱き合っていた身を放し、シェルファは長々と息を吐いた。  彼らが自分を探していると知って、途中から息を詰めていたのだ。 「なんて……人達!」  憤《いきどお》るようなリエラの声音《こわね》。 「王女様を引き渡して、自分達が助かるつもりなんだわ!」 「さらに言えば」  シェルファは哀《かな》しい微笑みで付け足す。 「その功《こう》と引き替えに、このまま敵に重用《ちょうよう》してもらうおつもりなのでしょう」 「王女様は、お腹立ちではないのですか!」  それには答えず、シェルファはリエラを見返す。 「リエラさんも、早く逃げた方がいいですよ……故郷はどちらですか?」 「え、ええと、もっと南の方です……けど。ああ、大変! 国が、国が滅びるかもっ」  またリエラがぶるっと震えた。  今更ながらに、現在の状況を思い知ったらしい。 「南なら、ちょうどいいですわ。わたくしもそちらへ向かう所ですから……よろしければ、途中までお送りしましょうか?」  なるべく冷静な声音《こわね》と共に、リエラの肩に手を触れる。  彼女の震えが止まった。かつてないほど、まじまじとシェルファを見つめる。  なにか感動したように言う。 「王女様、落ち着いてらっしゃいますね」  初めてシェルファが俯《うつむ》く。  小さい声で囁《ささや》いた。 「レインに再会するまでは、死ねませんもの」 「——え?」 「な、なんでもないですっ。それより、早くここから脱出しましょう……ね?」  いつかのレインがしてくれたように、シェルファは自ら手を差し出した。  しばらく後、かろうじて城門に残っていた衛兵《えいへい》二人が、シェルファ王女の姿を見た。  役目柄、彼らはメイドと相乗りしたシェルファが馬で疾駆《しっく》してくるのを見て、一応は止めようとしたのである。王女が外へ出ようとしても、絶対に出すな——そういう厳命《げんめい》を受けていたので。どう見ても、あれは王女だろうと。  しかし——  純白の乗馬ズボンに簡素な上衣、それに地味なマント——そんな、生まれて初めての格好をしたシェルファは、二人が進路を塞《ふさ》ごうとした途端、凛《りん》とする声で叫んだ。 『そこをどいてください!!』  その、声に籠《こ》められた威《い》に打たれ、二人は思わず飛び退《の》く。  両者の中間を、あっという間に馬が駆け去ってしまった。  二人して、後ろになびいた煌《きら》めく金髪だけを、惚《ほう》けたように見送る。  この日、シェルファは生まれて初めて自らの意志で運命を選択し、閉じこめられていた城を出たのである。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_169.jpg)入る]  第四章 再会  日差しはレニの頭上にあるが、冬が近い今の季節柄、もうあまり暖かくもなかった。  それどころか、かなり寒い。  中庭に据《す》えられたベンチに座るレニの身体に、容赦《ようしゃ》なく冷たい風が当たる。城壁の内側に一定間隔で植えられている木の枝も、ハラハラと赤く染まった葉を落としていた。  ——寒いなあ。でも、何日か前みたいに、ユーリちゃんが来るかもしれないし。  余程、さっさと城内に待避しようかと思ったが、ユーリがいつ来るともしれないのだ。彼女と昼食を共に出来る可能性を、あっさりふいにはできない。  せっかく自分に興味を持ってくれ、剣の腕前を感心してもらえたのだから、これからが勝負どころではないか。あともう少し、あともう少し(?)なのだ!  ……この前、ユーリが練習を見に来たのは、ただの偶然だとは少しも考えないレニだった。  ピュゥゥゥゥ〜  悲壮な決意を固めたレニをあざ笑うように、また一段と冷たい風が身体を叩く。サンドイッチをつまむ指がかじかんできたが、男はじっと我慢。 「ああ……でも、なんか平和だよね」  はあ、とレニはため息を吐《つ》いた。  現状としては、レインの命令で出陣の準備を進めているが、まだ具体的にどうという指示もない。レニのような騎士隊長は、下っ端の騎士や、騎士見習い達とは違い、特に忙しいわけでもない。ホントは暇なはずはないのだが、まあ休憩《きゅうけい》は必要だ。  つまりが、別段普段と変わりない。例えこの国の主君が死に、友軍のほとんどが全滅しているとしても、だ。まあ、セノアは一人で騒いでいるが。  それにしても。  ——と、レニは思う。  将軍の頭の中は、一体どういう仕組みになっているのだろうか。  四日前の晩、レニとセノアの二人の副官は、レインの部屋へ呼ばれた。  レニ達に、レインは年齢より遙《はる》かに若々しい顔の満面に笑みを浮かべ、告げたものである。 「今日、マジックビジョンでザーマイン遠征《えんせい》の戦況が届いたぞ」  ニコニコ顔である。機嫌もいい。ついでに顔の色つやもいい(いつもだが)。  これは大方《おおかた》の予想を裏切り、我が国の『びっくり逆転勝利』に終わったのかっ。ザーマインをやっつけたのかっ。  レニはほとんどそう確信し、レインがなにも言わないうちから、自分も馬鹿のようにヘラヘラと笑った。  普通、あの時の将軍の笑顔を見れば、誰だってそう思うはずだ。自分は悪くない。  ところが——事実はまるで違ったのである。  遠征《えんせい》軍は、ラルファス様の部隊を除き、ほとんど全滅。ダグラス王は、ガノアとギレスの裏切りにあい、戦死……  レニはその場で腰を抜かしそうになった。なんで笑ってられるんだよ、この人はっ、と思った。五年前にレインがサンクワールの騎士になる以前から、レニは傭兵《ようへい》としてレインの部下をやっていたが、こういうところはいまだに理解できない。  青ざめて震える自分に、激情のあまり泣きながら剣を振り回すセノア……思い出しただけで頭が痛くなる。 「ま、いいんだけどさ」  レニは半分残った弁当箱に目を落とし、未練の残る手つきで蓋《ふた》をすると、両腕を上げて背筋をう〜んと伸ばした。  陛下と自分は直接関わりはなかったのだし、いつも親切なラルファス様は助かったし、さほど悪い状況でもない。 (僕の主《あるじ》は、元々、将軍一人だしね)  そう、ダグラス王はこの国の主ではあったものの、レニの主《あるじ》ではない。自分の上に立つのは、あくまでもあの人のみだ。  そして、そのレインがラルファスを見捨てなかったことが、レニとしては非常に嬉しいのだった。 「あ、隊長〜」  ほっとしたような呼び声が、立ち去りかけたレニを引き留めた。  見ると、城門の方角から、少年といってもいい年頃の若者が小走りに駆けてくる。確かレニが受け持つ部隊の、騎士見習いだったはずだ。名前は覚えていないが間違いない。 「どうかしたの?」 「あ、はい。実はちょっと困っちゃいまして」 「なにが?」 「自分は今日、城門に立つ当番なんですが、ついさっき、全然|面識《めんしき》のない貴族らしき容貌《ようぼう》の方が訪ねてらっしゃって、レイン将軍に会わせてほしいって言うんですよ。で、どうしたものかと……お名前もおっしゃりたくないご様子でして」  城門の立ち番らしき若者は、鎧《よろい》姿のまま、身振り手振りで訴えた。  レニはフンフンと真面目に聞きながらも、「なんでみんな、なんかあったら僕に言うかなあ?」などと考えていた。  セノアさんもいるだろうに、なんで僕に? これから一眠りしようと思ったのにぃ。 「それは当然、入れちゃダメだね」  内心のふにゃけた思いをおくびにも出さず、レニは珍しくキッパリと言った。 「今は戦時中みたいなものだからね。外見だけ貴族でも、中身はどうかしれたもんじゃないし。いつも言ってるだろ? 怪しい人は入れちゃだめって」 「そう……ですよね」  なぜかとてつもなくがっかりした様子の若者である。  チラリとレニを見て、譲歩《じょうほ》してくれそうにないと見たのか、渋々と回れ右をする。  レニは心を鬼にして、あえて呼び止めなかった。  なにしろ戦時中だ。  そんな名前も名乗らない奴を、城内に入れるわけにはいかんのである。のんびりする中にも、引き締めるべき所は引き締めねばっ。うんうん。  去って行く若者が、ポツリと漏らした。 「あ〜あ。せっかく、すごい美少女だったのに。残念だな」 「待つんだっ、君!」  と大声を出した時、レニは既に若者を駆け足で追い越していた。  速攻《そっこう》の反応である。 「自分の勘だけど、その人物にはちょっと会ってみる必要があると思うね。うん、僕が直々《じきじき》に行こうじゃないか」  言うなり、とっとと門番君を置いていく。弁当箱もベンチに置いたままだ。  あ、あれ? あれれ? とか言う声が聞こえたが、無視して急ぐ。 「ず、ずるいっ。抜け駆けはなしですよ、レニ隊長!」  背中に浴びせられた呼び声に、レニは余計に足を速めたのだった。  城門のすぐ前に、天使が立っていた。  馬鹿げた表現だが、レニはまさしくそう思った。それほど、その少女は美しかった。  年齢は、まず十四〜十六歳だろう。  黄金の輝きを放つまっすぐな長い髪が、腰のあたりまで流れている。ぱっちりとした瞳は、あたかもグラデーションのように瞳の外側から内側に向かって、順に青い色が濃くなっていく。どう見ても生粋《きっすい》のサンクワール貴族である。  優しい顔立ちの——しかし驚くほど端正な美貌《びぼう》が、足音にぱっと顔を上げてレニの方を向き、すぐに失望したように瞳を伏せた。  貴族には珍しく、控えめな性格らしい。 「君達、お嬢さんが怯《おび》えるじゃないか! あまりジロジロ見ないように」  自分を呼びに来た若者と、元からそこにいた少し年長の門番の二人に、とりあえずレニは命じた。二人とも、口をポカンと開けて少女に見入っていたからだ。  立ち番の二人はやや不服気に、それでも仕方なく少女から目を逸《そ》らした。  見とれたい気持ちは男として非常によくわかる。命令は訂正しないが。  で、自分は穴があくほど、天使のごとき少女をじーっと見つめる。 「さあさあ、お嬢さん。なにかご用なら、この私が聞きましょう」 「……あの。わ、わたくし……」  天使はほんの少し顔を上げ、自分に熱い視線を注ぐレニと目が合うと、すぐにまた下を向いてしまった。 「どうしたのかな? 遠慮せずになんでも言ってみてくださいよ。このレイン将軍の副官たるレニが——って、わっ!」  突然だった。  今まで恥じらうばかりだった美少女が、急にレニに詰め寄ってきた。  ぶつかりそうなほどぐっと身体を寄せてきたせいで、なんともいえない甘い香りが鼻をくすぐる。 「レインの副官さん! では、どうかわたくしをあの方に会わせてくださいっ」  澄《す》み切った青い瞳が、強い光をたたえてレニを見上げた。  ただ大人しいだけの少女ではなかったらしい。 「は、はいぃぃ」  クラッとなり、夢中で何度も頷《うなず》いた。たちどころに、なんでもします僕、という気分になった。  途端に突き刺さる、門番二人のしんねりとした視線。  レニは、たちまち我にかえった。  そう。普段からくどくなるほど、「やたらと城内に人を入れちゃだめっ」と、自分自身が厳命《げんめい》しているのだ。少女の色香《いろか》に迷って原則を変えるのは、いかにもまずい。まずすぎる。部下の統制上にも問題がある。 「ああ〜、ごほん」  部下の目を意識して、レニはわざとらしく空咳《からせき》をした。喜色満面《きしょくまんめん》の少女にやや落ち着きを取り戻した声で尋ねる。 「えっとさ、場合によっては将軍に会わせないこともないんだけど、せめて名前と用件くらいは訊《き》きたいな」  てきめんに少女の顔が陰った。なにか、複雑な事情でもあるのかもしれない。  しかし、訊《き》かないわけにもいかないので、黙って返事を待つ。じんわりと時間が流れ、困ったような表情の彼女は、やっと薄桃色の可憐な唇を開いた。 「……わたくしは、シェルファと申します」 「シェルファ? う〜ん、どっかで聞いたような気がするなあ」  レニの記憶に引っかかる物がある。確かにどこかで聞いた名だ。門番の二人も同感なのか、同じように首をひねっている。  レニと違い、純血の貴族はこの少女のように、瞳の全てが青い色で占《し》められている。白目の部分などはない。ひょっとして、有名人なのかもしれない。 「君、どう見ても貴族の……それも名家の出身だよね? フルネームはなんて?」  今度の沈黙は、前よりさらに長かった。  緊張して待つ三人を交互に見やり、少女はさも気が進まないように名乗った。 「わたくしは——」 「うん、君は?」 「……シェルファ・アイラス・サンクワールと申します」 「シェルファ・アイラス・サンクワール……サンクワール……って、ええええええっ!」  律儀《りちぎ》に復唱《ふくしょう》してみて、レニは大いにたまげた。驚愕《きょうがく》したと言っていい。  この国に、名前に国名がつくような人物は、数えるほどしか存在しない。  謎の美少女の正体に遅まきながら気がつき、三人は文字通り飛び上がるほどたまげた。  大変だ! レニは額に汗がにじむのを感じた。  なんてすごい美少女だ!  違うっ。  すぐに将軍に知らせないと! 「将軍っ、しょ〜ぐ〜んっ」  なんの前触れもなしに扉が開かれ、大皿のように目を丸くしたレニが顔を出した。  レインは珍しくテーブルに広げていた絵地図から目を離し、はあっと息を吐いた。 「……どいつもこいつも。おまえなあ、俺がせっかくやる気になって策を練《ね》ってんのに、邪魔すんなよっ。だいたい、ここは安宿の部屋じゃないぞ。この城の最重要人物の私室なんだからな。ノックをしろ、ノックをっ」 「そんなの後ですよっ。大変です、大変っ。もうこれ以上ないくらい大変ですっ」 「くどいんだよ、おまえは。さっさと言え」 「わかりました。言いますよ、いいですねっ」  すうっと息を吸い込んでから、レニは芝居っ気たっぷりに宣言した。 「なんと、この城に来たんです! 王女様がっ。驚きましたっ」 「ラリッてんじゃない!」  レインは一喝《いっかつ》してから、嫌々立ち上がった。  なんだ、向こうから来たのか。 「……あまり驚きませんね?」  レニが責めるように言う。 「そりゃな。丁度ラルファスから王女を頼むって手紙が来てたし、王女もあいつに吹き込まれてたんだろ? なんかあったら俺の所へいけって。ま、来たものはしょうがない」 「そ、そんなあっさりと……すごい美少女ですよ、王女様は。もうちょっとこう……」 「嘘つけっての」  レインは、せせら笑って遮《さえぎ》った。 「あんな汗くさいおっさんから、美少女なんか生まれるもんか」 「ああっ、仮にも元主君なのにっ。ま、まあいいです。でも、ほんとですよっ。自分だってちょっと将軍みたいに疑問に思ったけど、現にすごい」 「ああ、わかった、わかった。なら、おまえが世話をしてやれよ? それで満足だろう」 「えっ、いいんですか? やった〜って……だめですよっ。そうしたくても、ご本人はぜひとも将軍に会いたいっておっしゃってるんですから!」 「俺にぃ? なんで?」 「知りませんよっ。お知り合いのような雰囲気でしたけど」  じと〜っと、レニの嫉妬《しっと》まみれの視線。  わかりやすい奴である。ユーリがお気に入りのくせに、王女とやらにも惚《ほ》れたらしい。 「知るかよ、王女なんか。なんかの勘違いだろうさ」 「そんな感じじゃなかったですよ。なんかもう、切実に将軍に会いたそうでしたし」 「そう言われても、心当たりのないものはどうしようもないね。ま、どのみち王女が会いたいと言うなら、拒否もできんけど」  嫌々、部屋を出ようとした。  まあ話のタネに、会ってみるのもよかろう。  そんなレインの態度が歯がゆいのか、レニが力を込めて言う。 「会えばあの美しさに驚かれますよ」 「ほんとかよ〜。賭けるか?」 「いいですとも! もし王女様に会って、まだ不美人だと思われたら、自分は裸で逆立ちして城内を歌いながら百周してみせますっ」  レインはさすがに驚いた。  この、弱気と自信のなさでは無敵を誇るレニが、そこまで言い切るとは。  これは、会った方がいいかもしれん。  心持ち足を速めて、廊下へ出る。  会ってみて、もしダグラス王に似ていたら、後で宣言した通りのことをさせるぞ!  一階にある客間へ向かう途中、廊下の向こうから、金髪の美女がきびきびと歩いてきた。膝近くまである紫色の上衣に、ぴったりとした、上衣と同色のズボンをはいている。  レインがうんざりしたことに、セノアだった。また怒られそうな気がする。 「将軍!」  こちらを見つけるなり、駆け寄って来た。  いきなり顔が怒っていて、美人が台無しだ……案の定である。 「良いところでお会いしました。今からみっちりとお話がありますっ」 「いきなりそれかよ……。悪いが、そんな暇ないね。なにせ、やんごとないお方が俺を呼んでいるんでね」  真面目な声と表情を作り、答える。もちろん、足は止めない。  が、それくらいで引き下がるセノアではなく、レインに肩を並べてかみつくように、 「誰です、そのお方とはっ」 「あのね、王女様なんだよ。すごいでしょ」  レニが、嬉しそうにフォローを入れる。  ……どうでもいいが、ガキの自慢話じゃないぞ。レインは情けなくなった。 「なっ! お、王女様ですと!」  ふらっとよろけて、セノアは廊下の壁に片手をついた。額に手を当てて、驚愕《きょうがく》の表情で廊下の天井を仰ぐ。わざとやっているのかと思うほどの、大げさなリアクションである。 「い、いつこちらへっ」 「うん、ついさっきさ……」  レニが親切にも説明していたが、レインは二人の声を背後に置いて先を急いだ。  セノアに付き合うと必ず文句が多く、めんどくさいからだ。やっぱりというかなんというか、ドタドタと追いすがる足音がして、セノアがまた並ぶ。  とたんに、文句。 「なんでそんな重要事項を、この私に話してくださらないのですかあっ」 「おまえなあ、俺だって今し方聞いたばかりだぞ。文句なら、レニに言えよ」 「将軍! なんてことをっ」  悲鳴のような、レニの声。 「とにかくっ。私も同行します」  じろっとレニに睨《にら》みをくれ、セノアがはた迷惑にも言う。  レインはうんざりして、足を止めた。 「好きにすれば? どうせ、もう着いたしな」  鉄の補強が入った頑丈なドアをノックしようとして腕を持ち上げ……凍りついた。  プレッシャー。  無数の戦いを経《へ》てレインが身につけた、超感覚ともいうべきものが、ザワザワと警告を発した。  この中にいる者は危険だ、と。  かつて会ったどんな敵にも勝る力の波動が、レインの首筋をピリピリと刺激する。  どういうことだ? 王女だろ、中にいるのは。なのに、この力は……俺にすら匹敵しそうじゃないか。いや、下手をすると俺以上だ。  それだけではない。  この感じは、初めてではない。俺は、いつだったか同じプレッシャーを放つ者に遭遇《そうぐう》している。忘れているが、確かに…… 「将軍、どうしたんです。固まっちゃって」  平和なレニの呼びかけに、レインは瞬きをして我にかえった。  振り上げていた手を、そっと下ろす。 「なあ、レニ……いや、セノアでもいい。念のために訊《き》くが、王女は剣技とか体術とかに優れているのか? 魔法でもいいが」 「はあ?」  レニが首を傾《かし》げ、セノアもわけがわからない、といった顔つきをしていた。  レインはイライラして、 「つまり、彼女は強いのかってことだ」  副官二人は、仲良く顔を見合わせた。  やや間をおいて、セノアが答えた。 「王女様は、ほとんど主城に籠《こ》もりきりだったお方です。学問や礼儀作法なら習っておられたらしいですが、剣や魔法はお知りにならないはず」 「ふむ……」  だが、気のせいではあり得ない。  現に、プレッシャーを感じるのだ。自分の超感覚を、レインは疑わなかった。これまで生き延びてこられたのは、それのお陰なのだ。 「まあいい」  入ればわかることである。  俺には、怖いものなどなにもない。どんな奴か、見てやろうではないか。  レインは勢いよく拳《こぶし》を上げ、扉を叩いた。  部屋へ入ると、長い金髪をふわりと舞わせ、素早く少女が振り向いた。  椅子に腰掛けず、窓から外を眺めていたその少女は、大きな青い瞳で、まっすぐにレインを、レイン一人だけを見つめた。  おいおい……。レインはとっさに声も出なかった。  フリルの多い、純白の服を着た少女の美しさに、驚き、あきれ果てていた。  ちょっと待て。なんであの、ぶすむくれた足の臭い中年から、こんなスーパーな美少女が生まれるんだよ? どこも、なんにも似てないぞ?  それに。  ちょっと眉を寄せる。  この子、見覚えがあるような。  プレッシャーのことは棚上げにし、レインはジロジロと少女の端正な顔を眺めた。 「……レイン」  突然、少女の瞳の縁に、涙が盛り上がった。  震える両手を大きく差し伸べ、泣き笑いの表情で歩み寄ってくる。 「え? え〜、王女様でいらっしゃる?」  対応に困ったレインの質問を、どうやら少女は聞いていないらしかった。 「会いたかった……ずっと、ずうっと、あなただけを待っていました。レイン……うれしい……うれしい。やっと……やっと会えたのですね」  一歩、また一歩、少女はポカンとしたレインに近づき、最後は走って胸に飛び込んできた。柔らかい身体が胸に当たる。  今度はセノアとレニが凍りつく番だった。  特にレニは、どういうつもりか両手を抱き締める手つきで突きだしたまま、あめ玉を横取りされたガキンチョのような顔をしていた。 「——レイン!」  ただひたすら、レインにしがみついてくる王女。 「ちょ、ちょっ! 王女様、あのですね、人違いじゃ」  と言いつつ、しっかりと腕を少女の腰へ回す。俺って調子いいよなあと思う瞬間である。 「レイン、覚えていませんか? わたくしです。三年前、レインに遊んでもらった……」  少女がやっと微笑し、レインを見上げた。  三年前……言われて、やっと記憶がよみがえった。立ち入り禁止の庭園で会った少女、寂しげな美貌《びぼう》、交わした約束……  思い出の中の少女が、眼前の王女と鮮やかに重なった。 「ああ〜っ! おまえ、あの時のチビかっ」  思わず大声が出た。 「はいっ。そうです、覚えていてくださったんですね!」 「もちろんさ! しかし、見違えたぞっ。たった三年で、すっげえ女らしくなったなあ。すぐにはわからなかったぜ」  懐かしくなり、レインは歓迎のつもりで、少女をぎゅうっと抱き締めてやった。当然のように、彼女も背中に回した両手に力を込めてくる。  おおっ。ぺったんこだった胸も、今は結構立派に膨《ふく》らんで—— 「……将軍」  陰にこもった声が、至福の時を邪魔した。セノアが据《す》わった目で、レインを睨《にら》んでいた。腰の剣に、手がかかっている。  なんで城内で帯剣《たいけん》しているのか、全く謎である。 「事情をお聞かせ願えますか」 「おまえ、雰囲気がめちゃくちゃ悪いぞ」 「事情をっ」  固く柄《つか》を握った手が、震えていた。  いつもながら、切れやすい奴である。  惜しいが、慌《あわ》ててミシェールを抱く手を離す。 「ああ、話すから落ち着け。この子はな、俺の知り合いで、ミシェールっていうんだ」 「は、はあ? 王女様ではないので?」  やっと硬直が解けたレニが言った。 「ああ、違う違う。ま、だいたい理由もわかるさ。ミシェールは俺に会おうとしたが、城内に入れなかったもんで、仕方なく王女の名前を使ったんだろう」 「あ、あの……」  と、そのミシェールが恐る恐る口を挟んだ。——上目遣《うわめづか》いの瞳で。  レインは心配するなという意味で、にこやかに手を振ってやった。 「なに、気にすんなよ、ミシェール。同じことをそこらの男がしたらぶっ飛ばしてやるが、おまえは特別だ。な〜んも気に病む必要ないぞ」 「い、いえ、あの……」 「いいんだって! 罪のないイタズラの一つや二つ、なんてことないさ。俺がガキの頃なんかおまえ、イタズラの帝王と呼ばれて」 「違うんですっ」  急にミシェールが声を張り上げた。  表情を改め、真剣な顔で訴えかける。 「わたくし、レインに嘘をついていたんです」 「……え?」 「あらためて本名を名乗ります。わたくしは、シェルファ・アイラス・サンクワール……ダグラス王の娘です……ごめんなさい、レイン。ずっと嘘をついたままで」  レインは頭の中が真っ白になった。  しばらくぼけっと少女を見返した後、 「……なんだって?」  部屋の空気がどっと重くなった。   ——☆——☆——☆——  夢を見ていた。  片目を隠すほど長い銀髪をした男と、剣を交えている夢だ。男は、故郷を出て以来敗北を知らないレインを追いつめ、今にも勝負を決めようとしていた。  馬鹿な!  夢の中の自分がそう思う。  こんなことが有り得るか? 俺がここまで追い詰められるとは——  俺は最強でなければならない。誰かに負けることがあってはならないんだっ。そう、もう二度と俺は——  しかし、焦る彼を無視し、銀髪の男は輝く魔剣を振りかざし、容赦なくレインを攻め込む。やがて、真紅《しんく》の刀身がレインの視界一杯に広がり、その身を切り裂いた。 「——くっ!」  汗まみれでレインは飛び起きた。  いつもと変わらぬ自室のベッドの上であり、窓から朝日が差し込んでいる。  しばらくしかめっ面《つら》でけたくそ悪い夢を思い出していたレインは、やがてゆっくりと首を振り、ベッドから降りた。……夢は夢だ。俺が敗れるなど、有り得ない。  きっぱりと頷《うなず》き、ワードローブに向かう。黒いシャツに黒いズボンという、いつもの黒ずくめの格好に着替え、軽くあくびを漏らす。やっといつもの余裕が戻ってきた。  ……明日は出陣だしな。今日くらいはゆっくりするか。妙な夢を見るくらいだ。知らず知らずのウチに疲れが出ているかもしれんし。  本当は、こんな日こそ城主は忙しいものだが、面倒が嫌いなレインは、セノアに見つかる前に行方をくらませることにした。  ギュンターを使って、ザーマインへの情報工作を施《ほどこ》してある。各種とりまぜた本国からの偽命令のせいで、彼らは足止めを食っているはずだ。うまくいけば、国境線を越えるところで迎え撃てるだろう。  そんなことを思いつつ着替えを終え、レインは壁に立てかけてあった魔剣を身につけると、窓から中庭を見下ろした。 「ふむ。誰も見てないな」  ざっと確認し、ヒラリと窓から飛び降りた。  猫のような身のこなしでくるくると数回身体を回転させ、普通なら死ぬ他はない六階分の高さから、無事に着地する。 「さて、ちょいと遠乗りでも……おっと」  レインの視線の先で、まだ子供といっても通用しそうな青年が、目を見開いていた。  レインは知らないが、彼は偶然にも、昨日シェルファを城門で迎えた門番君である。 「俺って、視界から自動的に男を閉め出すからなあ。あ〜おい、ちょっと来てくれ」  呼ぶと、まん丸な目をしたまま、門番君がフラフラとやってきた。 「おまえ、名前と階級は?」 「はっ、はいっ。ミランといいます。騎士見習いです、将軍」 「そうか、ミランか。今の、見たか」 「は、その……」  レインは微笑みながら、がっちりとミランの肩をつかんだ。 「なあ、ミラン。ちょっと怖い話をしてやろう。俺が聞いた中では、いっとう怖い話だぞ」 「い、いえっ。自分は別に」 「まあ聞けって」  引きつった顔のミランを鋭すぎる眼光《がんこう》で黙らせ、レインは話し出した。 「俺の知ってる騎士見習いの話でな、仮にMとしとくが……ある時Mは、偶然、自分が仕える城主の秘密をちょいと知ってしまったんだ。で、そいつは実におしゃべりな奴でな、嬉しがってその秘密を他の奴に漏らしたんだな、これが」  ミランの顔から、この寒いのにたら〜っと汗が流れた。 「そ、それで、どうなったんですか、Mは?」  青い顔で尋ねる。唇が紫色に変色している。  レインは沈みきった悲壮な声で大仰《おおぎょう》に首を振り、 「そりゃもう悲劇だね、怖いね。まず罰として、毎日便所掃除だろ、門番の当番を向こう五年連続だろ、俸給《ほうきゅう》も半減だろ、しかも出世の機会は永久にぱあ〜だ。どうだ、怖い話じゃないか」 「む、むちゃくちゃ怖いです。怖すぎます」  ガクガクと頷《うなず》くミラン。  顔色が、青を通り越して白っぽくなっている。レインはじいっとその目を覗き込んだ。  低い声でのたまう。 「で、最初の質問に戻るが、おまえ今、なにか不可解なものを見たか」 「自分は、将軍がきちんと出入り口から出てこられたのを目撃しただけです!」  涙まじりの声でミラン。 「わかればいいんだ、わかれば。未来の千人隊長はおまえに決まりだ、M!」  バシッ、バシッと景気良く肩を叩き、レインは茫然自失《ぼうぜんじしつ》のミランを置いて、機嫌良く歩き去った。  ……僕は、とんでもない人に仕えているのかもしれない。  棒立ちで城主の背中を見送りながら、ミランは思ったのだった。  何事もなかったように、レインは機嫌良く歌を口ずさみながら中庭を行く。  コートクレアス城では、高低差を利用した水道設備もあるが、一応は井戸もあるのだ。  外へ出かける前に顔を洗おうと、城の裏手に回る。と、井戸の前に先客を見つけた。  湿った長い髪を、タオルで念入りに拭《ぬぐ》っている少女……やっと昇りかけた朝日に、黄金色がキラキラと舞う。  半ばドレスに近い、純白のワンピースがよく似合っている。昨日、部下に命じてレインが多数用意させた内の一着だ。ちなみに、レインの好みを反映し、スカート丈は短い。 「よお、チビ!」  臣下《しんか》にあるまじきぞんざいな呼び方で、シェルファに挨拶《あいさつ》した。 「レインっ」  呼ばれた少女の顔に、笑顔が弾けた。  全身で喜びを表現し、シェルファはタオルを放り出して駆け寄ってきた。 「おはようございますっ。朝一番にレインに会えて嬉しいです」 「あ、ああ」  さすがのレインがとまどうほどの言葉だった。澄《す》み切った真っ青な瞳が喜びに輝き、物怖《ものお》じしないほっそりした手が、レインの手をしっかりと握ってくる。  俺、そんなに好かれるようなこと、したっけか? 「あ〜、おまえは事実上の主君にあたるけど、別に二人だけの時は、以前通りでいいよな」 「そのようなこと……言うまでもないことですのに」  笑顔が少し陰《かげ》った。 「まだわたくしのこと、怒ってるんですか」 「まさか。あの件ならおまえの事情も聞いたし、気にしてないさ。ただ確認しただけだ」 「よかった……」 「ただな、他の奴の前では一応、君臣の言葉遣いにしておこう。幸い俺は、人の気配を読めるから問題ないし」 「わたくし……」  長いまつげを伏せるシェルファ。 「レインとはいつも普通にお話したいです。それに、わたくしに父の代わりなど……」 「それも昨日話しただろ。王位継承権でいえば、おまえが一番なんだ。元王には、息子はいないからな。士気の面から考えても、主君と仰ぐ存在がいるんだよ。せめてこの戦いが終わるまでは我慢しろよ、な」  ガタガタと音を立てて手桶《ておけ》を引き上げ、顔を洗いながらレインは諭した。  シェルファはレインの隣で、 「レインが助けてくださるのなら、王位のことは我慢しますけど……でもレインがわたくしに敬語を使うのは——」 「いやか?」  コクリ、とシェルファが頷《うなず》く。上目遣いの美しい瞳がレインを見上げる。  だが、こればかりは致し方ない。あくまでも立場上、レインは臣下《しんか》の身なのだ。 「う〜ん、困ったなあ。あ、タオル借りるな」 「あ、あの。それ、わたくしが使いました」 「使ったのがおまえならいいさ。気にするな」  平然とタオルで顔を拭《ふ》く。なにかの花のような、やけに良い香りがした。 「まあ、王位やら人前の敬語の件は、このゴタゴタが片づいてからまた考えよう。王位が欲しい奴は、その辺にゴロゴロしてるしな。いざとなりゃ、そいつに押しつけるさ」  井戸の縁にタオルを掛けて、シェルファを見やる。あまり納得していないようである。 「……やれやれ。そう考え込むなよ。そうだ、気分を変えて、一緒に遠乗りにでも行くか」 「えっ」  シェルファが驚いた顔を上げた。 「わたくし、外へ出てもよいのですか?」 「なんだ、そりゃ? おまえ、体の具合でも悪いのか。そう言えばちょっと細すぎるかなあ。どこが悪いんだ?」 「あ、違うんです。わたくし、これまでほとんど外へ出してもらえませんでしたから、びっくりしただけです」 「——なるほど」  レインは深く頷《うなず》き、シェルファの頬にそっと触れた。途端に、雪のように白い頬がほんのりと赤くなった。 「いいか。これまでのことは全部忘れろ。今のおまえは、この国の主なんだ。誰ももう、おまえをないがしろにしたりはできない。自分の望みのままに振る舞えばいいんだよ」 「それなら、お願いがあります!」  シェルファは瞳を輝かせた。 「わたくし、これからはレインの側《そば》にいていいですか。いつも側《そば》を離れず、ずっと一緒にいていいですかっ」  なんでそうなる?  レインは彼女の勢いにタジタジとなったが、今更、いや、それはちょっと、とも言えない。  仕方なく、 「……それがおまえの望みなら、な」  と言った。 「うれしい……ほんとうに……うれしい」  とん、と頭をレインの胸につけ、小さく呟《つぶや》いた。  声音《こわね》に歓喜が溢《あふ》れている。  ひょっとして俺、とんでもない許可を出したのかもしれんな、とレインですら思った。 「おいおい、こんなことでそこまで喜ぶな。それより遠出に行こうぜ、な?」 「はい、もちろん。レインと一緒なら」 「よし。クリスを呼ぶか」  二本の指を口元にやり、レインはビイィィと達者な音色で口笛を鳴らした。  待つことしばし。  相棒のクリスがトットット、と駆けてきた。 「すごいです! 呼んだら来るなんて」 「まあね。そこはそれ、俺の相棒だから」 「見たこともないような、綺麗な毛並みの子ですね。真っ白で」  クリスを愛《いと》しげに撫《な》で、その手触りを楽しむシェルファ。気むずかしいクリスも、彼女を気に入ったのか、いつものように振り払う様子もない。  実に微笑ましい後ろ姿なのだが……  しかし、じゃあこいつから感じるプレッシャーはどう説明をつけるんだ。  クリスに夢中のシェルファを眺めながら、レインは悩んだ。  今や、はっきりと思い出していた。初めてあの庭園でシェルファと会ったときも、同じ強大な力を感じたのだ。  どこのどいつだ、と歌っていた声を低めて気配の方へ近づいてみれば、正体が幼い美少女で脱力したのだった。  あの時はあまり気にしなかったが、考えてみれば不思議なことである。剣技を習っているわけでもない(昨日、訊《き》いてみた)そっち方面では素人の少女が、このとんでもないプレッシャーを放つ理由がわからない。  まさか、強いのをわざと隠している——とか?  そんな様子は微塵《みじん》もないのだが……  ちょっと試してみるか。  レインは魔剣の柄《つか》に手を掛け、何気なくシェルファを呼んだ。 「おい、チビ」 「はい?」  手を止めて、シェルファが振り返る。  そこへ。  わざとあからさまに殺気を放ち、霞《かす》むような速さで、魔剣を横殴りに叩きつけた。相当な達人でもなければよけられないはずである。  青い閃光《せんこう》が雷光のように煌《きらめ》く。 「ととっ!」  あいにく、反応はまるでなかった。  レインはきょとんとしたシェルファの首筋、皮一枚の位置でなんとか刃を止めた。  あ、あぶないな、おい。危うく首を刎《は》ねるとこだったぜ。  冷や汗が吹き出した。 「まあ。この剣、魔法剣だったのですね。見せてくださるのですか」  自分が殺されそうになったとは夢にも思わないのか、シェルファは興味津々で白い手を伸ばした。 「わっ。こらこら、刃をつかんじゃだめだって。怪我《けが》するだろ」 「あ……それもそうですね。わたくし、剣を握ったこともないので」  すまなそうに、シェルファがあやまる。  どうやら「実はわたくし、とっても強いんですの」などということはなさそうである。  謎は、すぐには解けそうになかった。  コートクレアス城周辺は、近くに森や牧草地、さらには畑などが点在し、あまりアステル地方の中心地には見えない。  城下町にあたるはずの町クレアルタは、少し離れた場所にあるためだ。レインがこの地に築城《ちくじょう》する時、いざという時に戦火が及ばないようにと、わざと町と城を切り離したのである。  街道脇の畑では老女が腰をかがめて草むしりなどしていて、ザーマインの脅威《きょうい》が迫っていることなど、うっかり忘れそうになる。 「平和ですね」  と、シェルファがレインの腕の中で言った。  クリスに二人で相乗りしているので、どうしてもそんな格好になるのである。  二人は鞍《くら》の上で、スプーンを重ねたようにひっついていた。  他に馬を用意しようとレインは提案したのだが、彼女が相乗りを望んだのだ。  なんか俺ってめちゃくちゃ好かれてないか、と思う。一緒に遊んだだけなのだが。  レインはふと思った。  もし、この子を連れて田舎へ帰ったら、両親はなんと言うだろうか。  まあまあ。母さん、本物の王女様なんて初めて見るわあ。すぐにクッキーでも焼きましょうね……あの人ならそう言うだろう。  王女を攫《さら》って駆け落ちたあ、おまえもなかなかやるじゃないかっ。不良親父は豪快に笑ったりするだろう。  ……考えてみると、俺の両親はかなり変わっているのかもしれない。 「レイン……あの」 「んっ、どうした?」  なにやら言いにくそうなシェルファに、レインは現実に引き戻された。  シェルファは、重大な決心を——ある種の覚悟を秘めた口調で言う。 「さっきはずっと一緒に居たいと言いましたけど……これから先、レインが危険だと判断したら、わたくしなど放って逃げてくださいね。わたくしにとっては、レインが無事でいてくださることがなにより大事ですから」  こちらを思いやる、落ち着いた言いようだった。……納得は出来ないが。 「おまえね」  レインはあきれて、コツンと眼下の金髪を小突いた。 「……あ」 「あじゃないだろ。おまえ、生意気だぞ」  びっくりして下から見上げるシェルファに、レインは叱りつけるように言った。 「この俺が側《そば》に居てもいいって言うんだから、黙って納得してりゃいいんだよ。せっかく俺みたいな天才がここにいるってのに、頼らなくてどうすんだ」 「でもレインが——」 「でもじゃない。俺は嫌なら嫌とはっきり言う。だから拒否されない限りは、いくらでも頼ってくれていい。……おまえはダグラス王とは違うからな」  レインは手綱を握った手で、背中越しにシェルファをそっと抱き締めた。 「悪かったな、親父さんを助けなくて。おまえにだけはあやまっとく。おまえの親父だと知っていれば、少しは考えたんだが」 「気になさらないで」  シェルファは信頼しきった表情で、華奢《きゃしゃ》な身体をレインの腕の中に預けた。 「お父様が亡くなったのは、お父様自身のせいだと思います。それよりわたくしは、頼っていいとおっしゃってくださる、その言葉が嬉しいです……」  呟《つぶや》く言葉に、一切の迷いはなかった。  あえてなにも答えず、レインはただシェルファを抱く腕に力を込めた。  仲良く話しながら、かなり遠くまで来ていた。  森を一つ抜け、さらに前方に新たな森が現れる。と、そこから砂埃《すなぼこり》を巻き上げつつ、馬に乗った一団が姿を現した。  異常に視力のいいレインが目をやると、みな皮鎧《かわよろい》に身を包み、長剣を腰にさげた傭兵《ようへい》風の男達である。  彼らはこちらを見つけると、いきなり馬に鞭《むち》をくれて速度を上げた。思わず顔をしかめてしまいそうな、濃厚な殺気が感じられる。 「ひぃ、ふぅ、みぃ……二十人か。どっちが狙いかな。……それとも、どっちも殺《や》る気か」  あくまでものんびりとレインは呟《つぶや》いた。 「レイン?」 「シェルファ、どうやらお客さんのようだぜ」 「えっ……」  言われて、シェルファはやっと迫り来る集団に気がついたようだった。 「あの人達は……」 「刺客《しかく》だよ」 「そんな!」  シェルファは鞍上《あんじょう》で身を硬くした。当然の反応だろう。命を狙われて平然としていられる者は少ない。 「逃げないんですか」 「う〜ん。逃げてもいいんだが、俺の領地内で、あんな連中がうろうろしているのが気に入らないね」 「でも……わたくし、レインが怪我《けが》するのは嫌です」 「馬鹿だな。俺があんな、その他大勢に殺《や》られるもんか」 「ほんとう……ですか」  シェルファは身体をひねってレインを仰いだ。レインにしてみれば、その心配は心外である。なので、わざとふんぞり返って答えた。 「もちろんさ! 俺がその気になればおまえ、かる〜く千人やそこらは相手に出来るぜ!」 「まあ……」  ただでさえ大きな瞳を、さらに大きく見開くシェルファ。その顔は、驚きと尊敬に満ち満ちている。レインはクリスから転げ落ちそうになった。  信じたのか、おい。  こいつにうかつなことを吹き込むのは考え物だな……。ま、いいか。まるっきりのホラ話でもないし。  しかし、忠告はしておくべきだろう。 「あ〜、チビ」 「はい」 「あのな、人の話を簡単に信じちゃだめだぞ。……もちろん、俺は別だけどな」 「それなら心配ありません。わたくし、実はとても疑り深いですから」  シェルファは無邪気そうに笑った。 「心の底から信じているのは、レイン一人だけです」 「そ、そうなのか」 「はい」  居心地よさそうにレインに身を任せたまま、シェルファはしっかりと頷《うなず》いた。  他に誰も信じないのは、それはそれで問題だと思われるが、彼女の生い立ちを考えれば非難もできないだろう。なにしろレインが聞き及んだだけでも、ダグラス王はシェルファに対して相当に冷酷《れいこく》だったということだからだ。 「おっ」  話し込んでいる間に、随分と刺客《しかく》の群が近づいて来ていた。  レインはクリスを止め、自分は颯爽《さっそう》と地に降り立った。 「じゃ、ちょいと行って来る。クリスとおとなしく見ててくれよな」 「はい」  シェルファはもう異論を唱《とな》えず、素直にコクリと頷《うなず》いた。  ただ、白い繊手《せんしゅ》を伸ばしてレインの手を取り、容易ならざることを、ごく当たり前のように囁《ささや》きかけた。 「ご武運を。……もしあなたに万一のことがあれば、わたくしも覚悟は出来ています」  ここで、ようやくレインは思い知った。  彼女が自分に寄せる想いが、いかに純粋で深いものかを。  まいったな。……チビ、おまえは俺を買いかぶってるぜ……  ブラリと歩き出したレインを見て、男達は一斉に馬を降りた。  まだ抜剣しないものの、各人のギラギラした目つきを見れば、その意図《いと》は明らかである。  とにかく、彼らが友好を求めに来たのではないことだけは確かだ。  レインは爽《さわ》やかと言っていい笑顔を振りまきつつ、無警戒に近寄っていった。  お互いの顔がよく見える距離まで来ると足を止め、明るい態度で片手を上げる。 「よおっ。今日はいい天気だな」  沈黙。  男達は、野良猫が通りすがりの人間を窺《うかが》う時のような、どこかうさんくさい目つきでレインを眺めていた。  はっきり、「馬鹿か、こいつ」と言いたげな者もいる。一人が振り向いて尋ねた。 「こいつで間違いないのか?」 「ああ。そのふてぶてしい笑い方は、マジックビジョンで見せられた顔にちげえねえ」  集団の一番後ろで、偉そうにしている若い男が応じる。いつ顔を洗ったのかと疑いたくなるような、ひどい脂顔《あぶらがお》の男だ。間抜けそうに見えるが、一応リーダーらしい。 「でもよ、ずいぶんと若くみえるぜ……ホントに二十五か、こいつ?」  なおも不審を表明しようとした誰かを無視し、レインは呼びかけた。 「あー、ちょっと相談があるんだけどな。怒らずに聞いてくれるか?」  生意気な……という風に全員がレインを見る。ニコニコ顔のままレインは、 「俺が世界最強なのは事実だが、別に人殺しが好きってわけじゃないんだな。おまえらなんか殺したって銅貨一枚にもならないし。まあ、ある意味では世のためにはなるだろうが」  よどみない口調でレインはしゃべり、一同を見渡す。みな、毒気を抜かれた表情になっていた。一人でうんうんと頷《うなず》き、さっさか先を続ける。 「だけど、やっぱり血を流さずに済むならその方がいいと思うぜ。誰に頼まれたか知らんが、おまえらにすりゃどうせ無駄な努力なんだし。だからここは一つ、お互いに会わなかったことにしてだな、おまえらはとっとと俺の領地から出て行って……って、だから怒るなって先に言ったろ?」  刺客《しかく》達全員の形相《ぎょうそう》が変わっていた。  ただでさえ濃厚だった殺気の密度が、さらに濃くなる。  先頭の男が、べっと唾《つば》を吐いた。 「ふざけやがって……おめえみてえなクソ野郎は、死んだほうがせいせいすらあ」  レインは笑顔を引っ込め、ふうっとため息を吐《つ》いた。 「実は、俺もそう思う」  次の瞬間。  唐突にレインの体がぶれた。——霞《かす》んだ、と言ってもいい。  彼らの視界から瞬時に消えたレインは、恐るべきスピードで距離を埋《う》め、降って湧《わ》いたように集団の目前に現れた。  彼らが気付いた時には、もはや自分達の眼前——すなわち、間合いに突入されていた。  まずはぼさっと立っていた先頭の男が、抜き払った魔剣によって袈裟斬《けさぎ》りに斬られる。刀身が青い閃光《せんこう》となって斜めに走り、易々《やすやす》と骨まで断つ。  皮鎧《かわよろい》など紙一枚の役にも立たず、たちまち鮮血が噴《ふ》き上がる。  その血が大地を濡らすより先に、左右に斬撃《ざんげき》が走り、新たに肉を裂いて血泉《けっせん》をしぶかせる。  その都度、輝く魔力のオーラが虚空《こくう》をよぎり、薄青の軌跡《きせき》を印した。  冗談のような気安さで、刺客《しかく》達がばたばた倒れていく。レインの動きがあまりに速すぎ、彼らは未だに数を活かせずにいる。  風のように駆け抜けるレインを誰一人として捉えられず、人形のごとくあっさりと打ち倒されていた。  魔剣の青き残光が、不吉な幻影にも似て、刺客《しかく》達の目を灼《や》く。  生き残った者達の喉が鳴り、頬が引きつった。 「ま、魔剣だと! さ、散開しろっ。こいつ、思ったより遙《はる》かに」 「遅いんだよ、たわけっ」  叫んだ彼の眼前に、ぶわっと残像が収束《しゅうそく》した。  無論、レインである。 「——! があっ」  やっと我にかえり、剣を抜き注意を喚起《かんき》した男は、いきなり突進してきたレインに一太刀も浴びせることがかなわず、心臓を貫かれて絶命した。  霞《かす》むような手の動きで剣を抜き、手首を返して二人目を血の海に沈める。  この辺りで、敵がようやく動き始めた。  怒りに燃え、二人ほど左右から斬りかかってきた。元々は腕利きの傭兵《ようへい》なのだろう。両名とも、その太刀筋《たちすじ》は的確にレインの急所を狙っており、踏み込みも十分過ぎるほどに速い。  だが彼らが斬ったのは、消えゆく幻影——すなわちレインの残像に過ぎなかった。  ミリ以下の単位で相手の剣筋を見切り、レインは必殺の斬撃《ざんげき》をすっとかわす。  見えない結界に拒まれたかのように、彼らの斬撃《ざんげき》が空しく宙《ちゅう》を裂く。  レインは二振りの長剣を最小限の動きで避けつつ、同時に右手の魔剣を乱舞《らんぶ》させている。  一人が首筋、もう一人が胸を裂かれてギクンと硬直、そのまま崩れ落ちた。  続けて、また新手《あらて》が突っ込んでくる。 「おらあっ。——うおっ!」  剣突《けんつく》を外し、体勢が泳いだ彼の首筋に、青き刃《やいば》が吸い込まれ、鮮血を噴《ふ》く。  その結果も見ずに、返す剣で横殴りの一撃をもう一人に浴びせる。 「——がっ」  そいつは、かろうじて剣を立てて防御するのに間に合った。だが、魔剣の勢いと力に抗《こう》しきれず、金臭《かなくさ》い臭いと共に剣がへし折れる。  ロクに勢いも減じず、魔剣がまともに男の胸を薙《な》いだ。  血泉《けっせん》を噴《ふ》いて相手が仰向けに倒れると、後を追うように、折れた剣の一部も乾いた音を立てて地面に落ちる。  さらに振り向きもせず、レインは背後に蹴りを放った。  長い足がぶんっと伸び、背後に回ろうとしていた相手を正確に捉え、男の太い首に痛撃——エグい音がして、首を折った男が景気よく宙《ちゅう》に飛ばされ、道の脇へ落ちた。  だがその時には、レインは風のように他の獲物に向かっている。  二十名ほどいる刺客《しかく》達の間を、あたかも舞うようにレインが動く。魔剣が剣風を呼ぶごとに、誰かが悲鳴や血しぶきを上げて倒れ伏す。  男達は、全くなすすべがなかった。レインの動きについていけず、せっかくの大人数を活かしきれないでいる。  街道の広さは十分なのだが、囲んでしまおうにも、相手の動きが速すぎるのだ。  レインは男達にスピードで勝り、剣技で勝り、膂力《りょりょく》や胆力《たんりょく》でさえ勝っていた。こうなると、まるで勝負にならない。  しかも、その表情にはまったく緊張感がないのである。  まだまだ全然余裕なのだと、男達は嫌でも思い知った。  戦闘開始からたったの十秒ほどで、彼らは最初の半数にまで数を減じていた。 「くっ。せっかく、依頼より多めに数を揃えたってのに……化け物か、こいつは!」  後方で高みの見物を決め込んでいた脂顔《あぶらがお》男が、狼狽《ろうばい》のにじむ声を出す。  リーダーの恐怖と弱気が伝染し、果敢《かかん》に無駄な攻撃を続けていた刺客《しかく》達が、一旦《いったん》ざざっと下がる。蒼白《そうはく》な顔色で、お互いにチラチラと視線を投げ合っていた。 「どうしたんだよ、おい? 急に元気がなくなったな」  レインはあえて斬りかかろうとせず、魔剣を肩にかついでのんびりとあくびなどした。  呼吸すら乱していない。嘘くさいほど無尽蔵の体力を、刺客《しかく》達に見せつけている。 「今ならまだ見逃してやるぞ。もう一度チャンスをやるから、さっさと消えろって」 「な、なに吐《ぬ》かす! ちょっと魔剣を持ってるからっていい気になってんな。おいおまえら、さっさとかからねえか」  勢いよく言い返したのは、リーダー一人で、他の者達は意見が異なるようだった。皆、そぉ〜っと、レインから遠ざかって行く。  そしてレインが、 「あっ、そう。まあそんなに死にたいなら止めないし」  と言ってスッと足を踏み出したとたん、いっそ見事といっていい素早さで身を翻《ひるがえ》し、自分達の馬に向かって駆け出した。 「ああっ、こ、こらっ。なんの真似だ、おいっ。戻れ、戻れってんだあっ」  リーダーの絶叫に答えるものはおらず、たちまち皆、馬に飛び乗って脇目もふらずに逃げて行く。あろうことか死者の残した馬までが、喧噪に怯《おび》えたらしく、一緒になって走り出した。  後に残ったのは、逃げる手段を失い、部下も逃げ散った脂顔《あぶらがお》男のみ。 「ああああああーーっっ」  悲しげな声が尾をひいた。 「さあて、どうしたもんかなあ」  レインは、アワアワしている脂顔《あぶらがお》男に、意地の悪い笑顔を向けた。  さあっと青ざめる、脂顔《あぶらがお》男。顔中からおもしろいように汗を吹き出させ、露骨《ろこつ》に目を逸《そ》らせる。  喉を鳴らし、小さい声で言った。 「お、怒るなよ……悪気はなかったんだ」 「悪気はないだあ? 寝ぼけてんのか、貴様はっ。よっぽど死にたいんだな、そうだなっ」  レインは、魔剣を頭上に振り上げた。 「わあっ。待てっ、早まるな。話せばわかるっ。俺は悪くないんだ。ザーマインの宰相《さいしょう》からの依頼がはい、入ってだな。それで……あ」  汗だくの脂顔《あぶらがお》男が、急に惚《ほう》けたようになった。レインの背後を見やり、小さい目をまんまるくしている。 「レイン! お怪我《けが》はありませんか」  用心深くレインが振り返ると、シェルファがクリスを後ろに従え、死体を見ないようにしながらこっちへ来るところだった。 「おいおい。待ってろって言ったろ」 「ごめんなさい。でも、クリスが歩き出したものですから……それにしても、レインって強いんですね」  そんけーの眼差《まなざ》しで見上げるシェルファ。  とりあえず、恐怖よりも憧れが勝ったらしい。 「まあな。俺ってほら、天才だから」  ふっと笑い、さらりと髪をかきあげる。 「……その子、誰だ」  レインのいい気分に水を差すように、脂顔《あぶらがお》男が熱心な口調で口を挟んだ。 「おまえには関係ないんだよっ。この子はかつておまえに縁がなくて、これからも絶対に縁がない女の子なんだ。気安く見るな、おまえの視線で彼女が汚れる!」 「そ、そこまで言うのかよっ」 「言うんだよっ。大体おまえ、俺に質問なんか出来る立場か、ああっ?」  じゃきっとレインが男の喉元に剣を突きつけてやると、相手は震え上がって手を上げようとした。だが、まだ自分が剣を持っていることに気付き、慌《あわ》ててそれを投げ捨てる。  ぱっと両手を上げた。 「わかった! 許してくれっ。俺は本当に、ただ頼まれただけなんだからよう。宰相《さいしょう》だ、暗殺ギルドを通じて依頼を出したあいつが——あいつがいっとう悪いっ」 「……詳しく話してみろ」 「お、俺が依頼を受けたのはつい先日だ。宰相《さいしょう》の話じゃ、暗殺命令そのものは、レイグル王が出したらしい。だから、大元の命令はレイグル王だ。嘘じゃないぜ」 「む。男のくせに俺を狙おうとは図太い奴だな。百年早いぞ、はっきり言って」  レインは顔をしかめた。 「レインを暗殺……レイグル王が……」  ショック——というよりもとっさに心配したのか、シェルファがレインの腕にすがりつく。大丈夫だ、というつもりで、彼女に笑いかけてやった。だいたい、誰かに狙われるのはなにも初めてではない。 「なあ、もういいだろう? 見逃してくれよ」 「あつかましい奴だな、おまえ。潔《いさぎよ》く散ったら……お」  言いかけたレインは、前方の森に目をやって眉を寄せた。  また砂埃《すなぼこり》が立っている。新たに十人ほどの一団が、馬を飛ばしてこちらに向かって来ていた。 「ハア〜ッハッハッ」  それを見た途端、いきなり大復活を遂《と》げる脂顔《あぶらがお》男。  拭《ぬぐ》ったように卑屈な表情が消え、得意げに胸を張った。 「見ろっ、味方だぜえ。こんなこともあろうかと、宰相《さいしょう》の注文よりずうっと多めに人数を揃えてたんだからな。まいったかよっ」 「馬鹿か、おまえは」  一言でレインは切り捨てた。 「たった今、二十人がかりで敵《かな》わなかったのに、また十人来たからなんだってんだよ」  言われ、脂顔《あぶらがお》男の余裕がすっぱり消えた。それもそうだと思ったらしい。 「ったく。この爽《さわ》やかな朝に、むさくるしい男ばかりゾロゾロと。やってられないな。ここは、奥の手を使うか……」  レインはうんざりして吐き捨てると、シェルファの腕をそっと外し、大きく魔剣を振り上げた。  男と彼女が不審そうにしているのに構わず、そのまま勢いよく魔剣を振り下ろす。  青白い魔法のオーラを放つ刀身が、空中に書き記したような軌跡《きせき》を残した。  一瞬、空間その物が剣筋にそってズレたように見え——その刹那《せつな》、遙《はる》か向こうで、馬上の男達がのけぞった。  まるで、直接攻撃を受けでもしたように。  刺客《しかく》達の内、何人かが盛大に血をまき散らして無惨《むざん》に落馬している。  焦ってその仲間達も馬を止める。キョロキョロと辺りを見渡していた。 「俺が原因だって。気付よ、阿呆《あほう》。……もう一回くらいは仕方ないか……いっ、せ〜のっ」  ふざけたかけ声と共にまた魔剣が振り下ろされ、先程と同じく、一人がのけぞって落馬した。さすがに彼らも、レインがやったことだと理解したようである。  しばらくレインの方を指差して仲間内でしきりに言葉を交わし、ややあって一斉に馬首《ばしゅ》を返して逃げ去ってしまった。 「最初からそうしとけばよかったんだ」  けろっとレインは呟《つぶや》いた。落ち着き払ったレインとは対照的に、シェルファと脂顔《あぶらがお》男は血の気を失っていた。今の攻撃を見て、魔剣の素性《すじょう》がわかったのだ。 「え、遠隔攻撃だと……まさか、まさかその剣は……けっ、けっ、けけこけ」 「にわとりか、おまえは。傾国《けいこく》の剣って言いたいんだろ? そうだよ」 「な、なに余裕ぶっこいてんだ、おまえっ」  ひげもじゃの顔を恐怖に歪《ゆが》める脂顔《あぶらがお》男である。  上下左右に震える指を、しれっと立つレインに突きつけた。 「それがどんなにヤバい剣か、わかってんのかっ。どこで手に入れやがったっ」 「なにもおまえに使えとは言わないさ。気の小さい奴だ」  レインはぴしゃりと決めつけた。  ——その剣には正式な銘《めい》がない。  誰が魔力チャージしたのかも記録にない。  唯一残るこの剣の記録は、遙《はる》か千年以上前にさかのぼる。  その頃、大陸中央部の砂漠地帯に「セレステア」という小国が栄えていた。  人口五千ほどの、町そのものが国家のような小さな国だが、オアシスを中心にそれなりに繁栄していた。  ある、暑い夏の日までは。  その日、平和だったセレステアに一人の男が足を踏み入れた。  男がなんの用事でこの国を訪れたのか、今となってはまるで不明である。  とにかく……まるで魂を抜かれたような目をした男は、なんの前触れもなしに、いきなり町の住人を殺戮《さつりく》しはじめたのだ。  手に持った、青い魔法のオーラを放つ魔剣を振りかざして。  手にした者の視界内なら、遠距離攻撃も可能という恐るべき魔剣は、存分にその力を発揮した。止めようとした者も次々に凶刃《きょうじん》に倒れ、ついに王宮直属の衛兵《えいへい》達までもが駆り出される。  結果的に殺人鬼のような男を仕留めることに成功はしたものの、伝説ではそれまでに罪もない住人を含め、千人あまりが殺されたと言われる。  もちろん、その数字は大げさに過ぎるかもしれない。だが、魔剣が数え切れない命を奪ったのは事実である。  しかも悪いことに犠牲者の中には、衛兵《えいへい》を指揮していたこの国の王太子もいたのだ。  唯一人の息子に死なれ、聡明《そうめい》だった王は悲しみに暮れ、やがて狂い死ぬことになる。  あっけなく王の血筋は途絶えた。悪いことは重なる。以後、血で血を争う内乱が起き、ほどなくこのセレステアは蛮族《ばんぞく》の襲撃を受けて滅亡した。  美しかった町は焼き払われ、二度と復興《ふっこう》されることはなかったのである。  ……それからだ。人々は、国が滅びる原因を作った魔剣の存在を畏怖《いふ》し、誰ともなくこう呼び出したのだ。「傾国《けいこく》の剣」と。  いつ、どこへ失われたのか誰も知らなかったこの悪名高い魔剣を、レインは何年も前に、さる遺跡《いせき》の地下深くで見つけたのだった…… 「と、とんでもない奴だぜ、おまえっ。ああっ、こんな奴が相手と知っていたら、幾ら人数をしこたま揃えていても、絶対に関わらなかったのにようっ」  顔中を口にして、脂顔《あぶらがお》男が喚《わめ》く。恐怖と悔しさが混ざったような表情だった。 「俺が知るかよ、馬鹿」  レインは相手の抗議をばっさり切り捨て、 「それよりおまえ、まさかこのまま帰れるとは思ってないよなあ? 俺の魔剣が、いたく血に飢えとるぞ、コラ?」  ブゥゥゥゥンという羽虫のような音を立てる青白い剣を、レインは脂顔《あぶらがお》男の首筋の辺りに持っていく。効果抜群で、相手はさらにダーッと汗をかき出した。 「た、助けてくれっ。他はほんとになにも知らないんだってっ! 家には八つを頭に、十五人もの子供が俺の帰りを待ってんだ。見逃してくれっ、頼むっ」 「こ、こいつ。どっかで聞いたような嘘くさいセリフをぬけぬけと」  レインはむっとして剣を振りかざした。 「大体、豪快に計算が合ってないだろうが! いっぺん死ぬか、こらあっ」 「うわあっ、ち、違うっ。三つ子が一組と、ふ、双子が何組もいて——」 「やかましいっ。潔《いさぎよ》く冥界《めいかい》へ行けえっ」 「お、お助け——っ!」  ピョンと飛び上がると、脂顔《あぶらがお》男はレインに背中を向け、風を食らって逃げ出した。  実力はあるのかもしれないが、どうも愉快すぎる奴である。  だいぶ姿が小さくなってから、脂顔《あぶらがお》男は思いついたようにジグザグに走り出す。遠隔攻撃を警戒しているつもりだろう。そんな真似をしても、傾国《けいこく》の剣の「見えない斬撃《ざんげき》」にはあまり効果がないのだが。  これをかわすには、当たる寸前で都合良く避けるしかないのである。 「なかなか笑わせてくれる奴だったな」  レインはあえて追い打ちをかけようとはせず、剣を鞘《さや》に収めてシェルファを見た。  憂《うれ》うような瞳が見返した。  美しい弧《こ》を描く眉が、心配そうに寄せられている。 「どうした、チビ」 「大丈夫ですよね? 大丈夫だと言ってください」 「は?」  レインが聞き返すと、シェルファはすぐには答えず、手を伸ばしてレインにそっと寄り添う。 「敵の王に狙われていても、傾国《けいこく》の剣をその身に帯びていても、レインなら平気ですよね。怪我《けが》したりしませんよね、ねっ。……わたくしを、一人ぼっちで置いていったりしませんよね?」 「……馬鹿、当然だろ。俺が奴らの手に負《お》えるもんか。安心しろ。この剣だってな、使う奴次第だよ。剣自身には罪はないさ」 「…………信じます、その言葉」  かなり時間を置いてから、シェルファはやっと顔を上げて笑顔を見せた。 「レイン、いつかわたくしに、剣技を教えてくださいませんか」 「え……なんでだ」 「レインの足手まといになりたくないんです。あなたのおそばにいる以上、少しはレインにふさわしい女の子になりたいですから」  ガラス同士を弾いたような透明な声で、そんなことを言う。  まいったな。  レインはシェルファの細い腰に手を回してやりながら、らしくもなく言葉を失っていた。  ……俺はこの子から、そんな純真な想いを寄せてもらえる男だろうか。ただ強くなるのを人生の目的とする、どうしようもない奴なのに。 「レイン?」 「あ、ああ。教えてやるさ。その代わり、料理も覚えろよな。メシの作れない女も結構悲惨だからなあ」 「はい、きっと。わたくしもレインに負けないぐらい、たくさん努力しますね」 「……おいおい、この俺が努力なんて」  いささかギクリとして身を引くレイン。  そんなレインを、シェルファは優しい眼差《まなざ》しで見つめた。 「わたくしは、レインの天才性を一度も疑ったことはありません。でもレインは、つらい修練もいっぱい積《つ》んだんだと思います」  とたんに、反論しようと口を開いたレインの手を、シェルファは両手で握った。 「最初に会って手を握ってもらった時、どうしてこの人は、こんなに手が固いんだろうって思ったんです。……後で考えてわかりました。これ、マメが何度もつぶれたせいなんですね? いつも剣を振っていたから……。だから掌《てのひら》がこんなに固くなってしまった。……違いますか」  ぐうの音も出ないというのは、こういう状態を言うのだろう。レインは思い知った。  まさにその通りで、ごまかす余地もない。  かろうじて体勢を立て直し、彼女が「わたくしもがんばります」と言ったのに合わせて、 「せっかくの柔らかい手を固くすんな、馬鹿。俺が握った時、失望するだろう?」  と切り返すのがせいぜいだった。  全く、この少女は見た目だけではなく、中身もただ者ではないらしい。意外と王者の資質があるのかもしれない。 「たいしたもんだよ、チビ」 「えっ」  可愛らしく小首を傾《かし》げるシェルファ。 「いや、いいんだ。さ、もうそろそろ帰るか。セノアの奴が大騒ぎしてる頃だしな」 「はい」  にっこりと頷《うなず》き、クリスの元へトコトコ歩く。  そのたおやかな後ろ姿に、レインは声に出さずに語りかけた。  ひょっとして、おまえが放つプレッシャーの正体が、隠された才能によるものなら。  シェルファ、おまえこそは真の天才だ。  ——この俺のようなまがい物ではなく。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_227.jpg)入る]  第五章 決戦  宰相《さいしょう》ジャギルが処刑場に足を運んだ時、レイグル王は既に大勢の罪人を斬り殺した後だった。  いつものことだが、相手にきちんと武器を持たせ、自由を約束して餌《えさ》とし、巧妙《こうみょう》に自分との戦いに引きずりこんだのだ。おそらく、これが彼なりの修行のつもりなのだろう。恐ろしく悪趣味だとジャギルは思うが。  で、結果はいつもの通り、レイグル王の圧倒的な勝利に終わりかけていた。  高い壁に囲まれた、円形の処刑場に無数の死体が倒れ伏し、最後の一人も震えながら突っ立っているだけである。血の臭いが充満していた。  やってきたジャギルには目もくれず、王は哀れな罪人にぼそりと言う。 「どうした、早く来い。おまえが、この中で一番マシなのはわかっていた。だからあえて、最後まで残しておいたのだ」 「お、おまえは……おまえは一体……」 「何者だと言いたいのか?」  剣を持つ手をだらりと下げ、顔色を失って喘《あえ》ぐ男に、レイグルはほんのわずかに口元を綻《ほころ》ばす。 「ふふふ……間もなく、大陸中が俺の正体を知るだろう。おまえは、冥界《めいかい》からそれを眺めているがいい」  言った刹那《せつな》、レイグルは音もなく男の前に飛び込んだ。  魔剣が唸《うな》りを上げて弧《こ》を描く。不吉な、真紅《しんく》の半円を。  一撃目で男の剣を持つ手が宙《ちゅう》に舞い、長身がひるがえって、返す二撃目であっさりと首が飛んだ。  反撃する気配すら見せることがかなわず、驚愕《きょうがく》の表情を浮かべたまま、生首が地面を転がる。血走ったその瞳が、老いた宰相《さいしょう》を恨めしそうに見上げた。  ジャギルは、膝が笑い出しそうになるのを堪《こら》えるのがやっとだった。  今更だが、とんでもない男が王になったものだと思う。 「——何用だ、ジャギル。いつまでも突っ立っているな」 「はっ、ははっ」  相変わらず背を向けたままの主に、ジャギルは掠れ声で答えた。 「も、申し訳ありません。レイン暗殺に失敗したようです。たった今、報告が入りました」  倒れ込むように、平伏する。  顔すら上げられなかった。 「ほう。大勢送り込んだのに、仕損《しそん》じたか」  意外にも、レイグルの声が少し弾んだ。  それでも頭《こうべ》を垂《た》れたままのジャギルの耳に、王の声が微《かす》かに届く。 「ふむ……どうやら無責任な噂だけでもなさそうだ。一度、俺自らが試すか……この閉ざされた世界にも、我が宿敵がいるかどうか」  驚いたことに——大仰《おおぎょう》なセリフと共に、王は微《かす》かに笑った。  いかにもなにかを期待するように、楽しそうな声音《こわね》で。   ——☆——☆——☆——  一方、こちらはサンクワール国内。  レインの指揮する、予備兵力や新規徴募《しんきちょうぼ》の兵までも含めた三千をやや割る軍勢は、刺客《しかく》騒ぎの翌日、コートクレアス城から出陣した。  出陣前にレインは、「この戦いに加わりたくない者は、残ってもいいぞ」という寛大な触れを自軍に出したが、居残りを申し出る者はいなかった。  どれほど欠点が多かったとしても、レインの実力はこれまでの戦《いくさ》で証明されていたし、本人が知らないだけで、実は彼を慕《した》う者は多いのだった。  数は三千に満たないにせよ、この集団はレインを中心に完全に一つにまとまっていた。  悲観的な空気と無縁の一団は、無難に行軍《こうぐん》を続け、数日後にはラルファスが城主を務めるスターヒル城へとたどり着いた。言うまでもなく、ラルファスと合流するためだ。  ここは方角的には王都の南に位置し、ガルフォート城へは、馬を飛ばせば半日で着く距離にある。  この場所に領地を持つこと自体が、ラルファスに対する亡き王の信頼を証明している。やっかい払いのごとく辺境に飛ばされたレインとは、エラい差である。ただし、ラルファスも最近は、先王の信頼を失いつつあったが。  小高い、町を望む丘の上にある城を目指して行軍《こうぐん》中、レインは自分の横に馬を並べているシェルファに話しかけた。  ただし、小声で。 「悪いな、チビ。そんな格好させてさ」  そんな格好とは、フード付きのローブをすっぽりかぶり、ロクに彼女の顔すら見えない格好のことだ。  まだシェルファのことは、レインの独断で一応の秘密にされているのである。 「いいえ、レイン」  シェルファもつられて小声で答える。 「なにか考えがあるのでしょう。わたくしはレインを信じています……」 「……ありがとよ。すぐに理由はわかるから」  ただし、ほんとにしょうもない理由なのだが——  やがて緑の丘に刻まれた街道を登り切り、レイン達の前に、城の全景が見えた。  到着するや否や、レインは再会の喜びをかわす間も惜しみ、ラルファスに言って、城のホールに両軍の騎士達を集めるように頼んだ。  代わりに自分は、王女を連れて別室に消えてしまう。 「なにか慌《あわ》ただしいな。レインはどういうつもりなんだ? 王女様と二人で」  ラルファスは自分の城のホールで途方に暮れる羽目になった。  ここは三階分をぶち抜いた大ホールで、城内に入る者は、必ずここを通る。いわば入り口だ。  見上げると首が痛くなるほどの高い天井に、サンクワールの騎士が主に信仰する、戦いの神たる女神、金色の髪をしたミゼル神が描かれている。  左右の壁際には、二階の回廊へ出る階段。  そして足下は総大理石張りで、ピカピカに磨き上げられ、まるで鏡のような光沢を放っていた。  いつも人通りがあるとはいえ、比較的静かな場所なのだが、今や両軍の騎士隊長はもちろん、入れるだけのありったけの騎士達でごったがえしている。 「まあ、将軍のやることはわかりませんからねえ。なんか士気を高めるんだとかおっしゃってましたけど」  ラルファスの横に立っていたレニがのんびりと言った。副官とは思えない、実に他人事のようなセリフだった。 「士気を高める? それが本当なら、有り難いことだが。強敵を前に、皆緊張しているからな」 「それはまあ。でも、あまり期待なさらないほうが」 「今はこんなことをしている時ではないはずだっ」  これはセノア。美麗《びれい》な金髪を振り乱し、地団駄《じだんだ》を踏みそうな様子である。 「すぐに進軍し、ザーマイン軍に正義のなんたるかを知らしめるのが我らの務めのはず! しかるにっ」  だんっと足を踏みならす。力を入れすぎて痛かったのか、ちょっと顔をしかめた。 「将軍は王女様と二人きりで、なにをなされているのか!」  これが一番言いたかったらしい。 「そうですよ〜。な〜んか怪しいですよね〜、あの二人」  ラルファスが初めて見る、黒髪をうなじの辺りで切り揃えたかわいらしい少女が、気にいらなそうに追従《ついしょう》した。 「……レニ、あの子は?」  ラルファスはそっと尋ねた。 「あ、ユーリちゃんって言うんです。将軍とは父親同士がお知り合いだったらしく、少し前に騎士見習いとして来たんですよ」 「ほう」  なんだか随分と嬉しそうなレニの説明を聞き、レインとはなんと女性と縁が出来やすい男か、とラルファスは感心した。自分がもてるとは少しも思わないラルファスである。  と、それまでぼけっと立っていた副官のグエンが、野太い声で「お、あいつは」と言い、太い首を巡らせた。ひっそりとしていたナイゼルまでも、目を細めて見ている。 「? どうした」  ラルファスが振り返ると、四角く切り取ったような巨大なホールの出入り口から、むっつりとした顔で大きな箱を抱えつつ、ギュンターが入ってきたところだった。  いつものことながら、なにか嫌なことでもあったのか? と訊《き》きたくなる雰囲気をそこら中にまき散らしている。世界中の全てが気に入らん! そんな感じの表情だった。 「ギュンター、その箱はなんだ」  さっさと通り過ぎようとするのを、慌《あわ》てて呼び止めた。 「これは、『士気高揚《しきこうよう》アイテムその一』です」  ぶすりとギュンター。  そのまま奥の方へ立ち去ってしまう。 「なに? ちょっと待ってくれ」  ラルファスは、急いでギュンターの背中を追った。後にゾロゾロとレニ達も続いた。  もう十日あまりも一緒に居るが、どうもこの男も底が知れないな——  足を速めながら、ラルファスは嘆息《たんそく》した。  とにかく愛想がない。自分からは決して話しかけて来ないし、こちらから声をかけても迷惑そうに短い返事を返すだけだ。  その忠誠心はどうやらレインだけに向けられているようだが、一体あの男嫌いのレインとどんな接点があったのだろう。  ラルファスの疑問をよそに、ギュンターは背筋を伸ばして歩き、入り口正面の壁際に、底を上にしてドスンと木箱を置いた。 「これ……リンゴが入ってた箱じゃあ?」  早速木箱の周囲を点検したユーリとかいう少女が、あっけにとられたように指摘した。 「どこの城の地下室にも、ゴロゴロしているやつだ。……リンゴを入れてあった」  ナイゼルも同意するように頷《うなず》いた。 「わからねえ。その木箱がどうしたんでえ」  グエンがうろんな顔つきで、ギュンターに視線を投げた。  これに対し、愛想のかけらもない態度でギュンターは、 「元はどうあれ、今は『士気高揚《しきこうよう》アイテムその一』なのです」 「お、おめーなあ」  むっとしたグエンの怒りをかわすように、彼はすっと階段の方を指差した。 「士気高揚《しきこうよう》アイテム、その二が来ました」  ラルファスを初め、みんなさっと階段の方を見た。  ——絶句。  大ホールから一切の音が消え、静まり返った。  青い絨毯がひかれた階段を、しずしずとレインと王女が降りてきている。  例によって黒ずくめのレイン。  そしてシェルファ王女の方はと言うと、純白のドレス姿……フリルとレースがふんだんに使われた、実に上品な姿である。ほのかに膨らんだ胸のやや上に、アクセントでピンクの薔薇《ばら》が飾ってあった。  それはいいのだが、スカート丈《だけ》がかなり短い。  どうやらあの男は、ドレスアップした深窓の姫君を壇上(リンゴ箱だが)に上げ、停滞気味《ていたいぎみ》の皆の士気を、一気に沸騰《ふっとう》させるつもりらしい。 『あいつめ、あざとい手を!』  ラルファスは心中で呻《うめ》いた。  このような手段、普通の騎士は思いつきもすまい。  まあ、あいつらしいとも言えるが。  ラルファスの非難の視線などモノともせず、レインは俯《うつむ》き気味の王女をエスコートして、木箱の側《そば》に立った。王女に顔を寄せ、なにやら話しかけている。  しばしためらう素振《そぶ》りを見せた後、王女は箱の上に立った。  途端に、声なきどよめきがホールを駆け巡った。  これまでシェルファ王女を実際に見た者はほとんどいない。  ラルファスの部隊はもちろん、行軍《こうぐん》中ずっと顔を隠していたため、レインの部隊の者達すら、その多くは今日初めて王女を見たのだ。  ホール内に集まった騎士達(つまりほとんどが男)は、その美貌《びぼう》に魂をぬかれたようにぼーっとなっていた。 「よし、みんなよく聞けよ! この方こそ、先王の娘、シェルファ王女だ。当然、次の王位を継ぐ方でもある。今から俺達の新しい主君のご挨拶《あいさつ》があるからな」  景気よく怒鳴るレインを見て、ラルファスはめまいがした。   ——☆——☆——☆—— 「あの……みなさん」  か細く震える声で、シェルファは語り始めた。が、一斉に自分を注視する視線の束に気圧されたのか、そこで言葉を切ってしまう。  すぐに、救いを求めるように下に控えたレインに目を向けた。レインはただ黙って微笑み、微《かす》かに頷《うなず》いて見せた。  しばらく二人の目が合う。  あたかも、レインの黒瞳《くろめ》に、なにか不可視の力を得たかのようだった。  次の瞬間、シェルファはまっすぐに背筋を伸ばし、語り始めた。 「わたくしは君主たる器ではありませんし、その能力もありはしません。ただの世間知らずの女の子にすぎないのです。みなさんの中には、わたくしなどが国を代表することを、不満に思う方もいらっしゃるでしょう」  王女はここで、そっと大ホールを見渡した。一切の音が途絶えたホール。ラルファスを初め、誰もが美貌《びぼう》の少女に見入っている。  新たな主君の言葉を一語一句聞き逃すまいとして。  またちらっと脇のレインを見てから、シェルファは言葉を紡《つむ》ぎだした。 「自分の無能さは、わたくし自身が誰よりも自覚しています。だからわたくしは、みなさんにご命令するというより、最後の責任を取るためにここにいます。  たとえ無能非才《むのうひさい》な身であろうと、そのような立場にいるのは、意味のあることだと信じています。誰かが務めねばならない役目でしょうから」  脇に立つレインに力を得たせいか、はたまたシェルファ本来の芯《しん》の強さが見え始めたのか、彼女は徐々《じょじょ》に落ち着き始めている。  最初は小さいばかりだった声にも、力強い張りが出てきた。  澄《す》み切ったソプラノの声音《せいおん》が、広々としたホールの隅々にまで届いている。  本来、シェルファ自身が持つ力や魅力が、今この瞬間、はっきりと表れ始めていた。 「みなさんだけに危険を負《お》わせる気はないのです、どうかそれをわかってください。  わたくしは確かに、自ら剣を取って戦うことは出来ません。生まれて一度も剣を握ったことのないわたくしです。そのような真似をした所で、みなさんの負担を減らすことが出来ようとは思えません。  それでもわたくしは、みなさんと共に戦場に向かいます。  それが君主としての務めだと信じていますから。  でも、わたくしの心には恐怖も不安もありません。この戦いが勝利に終わることを、心より信じているからです!  今の時点ではそれを信じ切れない方も大勢いることでしょうし、それは無理もないことだと思います。だけどみなさん——」  シェルファは優しい微笑みとともに、ホールに詰めかけた騎士達をぐるっと見渡す。  しなやかな両手をそっと広げた。  あたかも、皆を包み込むように。 「逆に言えば、わたくしには相応《そうおう》の覚悟も出来ています。  なにか不慮《ふりょ》の事態が起き、仮にこの戦いで勝利を得られなかったとしても、その時にはわたくしがいます。サンクワールの君主がここにいます!  そのような時にこそ、王たる者の存在価値があるのだと思っています。その器《うつわ》ではないわたくしも、その時だけは王者としての務めを果たす決心です。  だから、どうかみなさん、心おきなく戦ってください。……何度も言いますが、みなさんだけに危険を負《お》わせる気はないのです」  ホール内の空気が張り詰めた。  たとえはっきり口にせずとも、この少女が、いざという時は自らの首を敵に差し出す気だと、一人残らず悟ったのである。  ——生き残った者の助命と引き替えに。  息を呑んだ騎士達を見下ろしたまま、シェルファはむしろ穏やかに演説《えんぜつ》を続ける。  気負《きお》う様子もなく、悲壮感《ひそうかん》なども全くなく。 「ですがわたくしは、そのような時は来ないと心から信じています……いえ、知っています!  初めて国が一つにまとまった今、大国ザーマインを相手に、必ず最後の勝利を掴《つか》めることでしょう。  この苦しい戦いが終われば、きっときっと、またみなさんとこうして向き合い、お話し出来る時が来るでしょう。  だからみなさん、その時までどうか死なないでください。わたくしの、ただ一つのお願いです……」  終始一生懸命《しゅうしいっしょうけんめい》に話し、シェルファはまた、ぐるっと皆を見渡す。  そして、最後に小さく頭を下げた。  再び顔を上げた時、シェルファは王者から恥じらう少女に戻ったようだった。  頬を薔薇《ばら》色に染めたまま、レインの手を借り、そそくさと木箱から降りてしまう。  彼女が視界から消えた後も、ホール内はしばらくシーンとしたままだった。  だが——  いきなり誰かが奇声を上げた。うおおおっとかそんな声だ。  その声を皮切りに、そこら中が拍手と歓声で満ち満ちた。  足を踏みならす者、泣きながら手を叩く者、ただ大声で喚《わめ》く者……共通しているのは、全員がシェルファ王女を讃《たた》えていることだ。 「ちくしょおおおおおっっ! 俺はやりますぜっ。絶対にザーマインのクソ野郎共に、王女様を渡しぁしませんぜっ」  耳元で聞き覚えのある誰かの声が絶叫し、驚いたラルファスが見ると、やはりグエンである。  感極《かんきわ》まったのか、グエンは真っ赤な顔で拳を振り上げ、やりますぜええーと大音量で喚《わめ》き続けている。ホール中がグエンと似たような騎士達で溢《あふ》れ、士気が高まったどころの騒ぎではなかった。  レインの狙いはどんぴしゃりと当たったらしい。いつものことだが。  なるほど、士気高揚《しきこうよう》になった、とラルファスは苦笑する。  ただ、自分だけ熱狂した連中から取り残されたようではある。  そこへ、得意げなレインと王女が連れ立って来た。王女は皆に声をかけられ恥ずかしそうにしている。  やたらとスカートの裾《すそ》を気にして、引っ張ってもいた。まあ、普段から裾を引きずる長いスカートに慣れているせいだろう。  そしてレインが、かつて見たことないほど嬉しそうに述べた。 「どうだ、シェルファ——いやっ、姫様の激励《げきれい》は抜群《ばつぐん》の効果だったろう?」 「……レイン、おまえな」 「おっと、小言はなしにしようぜ。なにはともあれ、効果もあったんだし。あ、言っとくが、話の内容まで俺はコーチしてないからな」 「それにしても……まあいい」  ラルファスは王女に軽く一礼し、この件にケリをつけた。確かに今は他に大切なことがある。レインと王女の関係についても話を聞きたいが、それも生き残った後のことだ。 「レイン、ちょっと」  ラルファスはレインをホールの隅へ誘った。またゾロゾロと、グエンを初めとする仲間がついてくる。 「こらっ。おまえらは進軍の準備だっ」  他の騎士達までついて来ようとしたので、グエンが大声で追い払う。  仲間だけになったところで、ラルファスは単刀直入に尋ねた。 「これからのことだが……策はあるのか?」 「ふ、それはおまえ」 「はいはいはいっ」  すっぱりと話の腰を折るユーリ。  両手を上げ、ピョンピョン跳んでいる。なかなか活発で、遠慮しない性格の少女らしい。 「おまえ、見習いのくせに態度がでかいのと違うか……まあいい、言ってみろよ」  あきらめたように指差すレイン。 「へへへ。あの、人数差がありすぎるからぁ、この城に籠城《ろうじょう》して敵があきらめて退却するのを待つのがいいと思います〜」  レインは精悍《せいかん》な顔をしかめてユーリを見返し、にべもなく申し渡した。 「田舎へ帰って花でも摘《つ》んでろ、馬鹿たれ」 「ええ〜、なんでですかあ。良い案だと思いますけど」  ユーリはひどく不満そうに頬を膨らませた。 「籠城《ろうじょう》とは、他から援軍《えんぐん》が来る前提《ぜんてい》があって、初めて成立する戦法なんだ」  気の毒なので、ラルファスは割り込んで説明してやった。えっ、という風に少女がこちらを見る。 「もう他の上将軍《じょうしょうぐん》の部隊は全滅して、どこからも援軍《えんぐん》は来ない。したくても籠城《ろうじょう》はできないんだよ」 「……あ、そうなんですかあ」  納得したようにユーリが頷《うなず》いた。 「そうだ、おまえは黙っていろ」  今度はセノアが自信満々で一歩前へ出た。むっとしたユーリを無視し、一同を順繰りに見て力強く語り出す。 「ザーマイン軍は大軍です! これにまともに当たるのはいささか無謀《むぼう》であります」  この言い分にはラルファスも驚いた。  彼女はもっと積極論を唱《とな》えると思ったのだ。レインも意外そうな様子で、「そうだ、わかってるじゃないか」と言った。 「わかっておりますとも」  顔を赤くして(興奮しているようだ)セノアはさらに一歩、レインに迫った。  ラルファスはもちろん、グエンにナイゼル、ユーリにレニ、そして王女がじっと次の発言を待つ。レインですら真剣な表情になった。ただ、ギュンターだけはぶすっとしたままだったが。  セノアは威儀《いぎ》を正し、凛《りん》とした表情で語った。 「しかしっ、このような強敵を恐れずに戦に臨《のぞ》むのが、真の騎士というもの! 勇気を持って当たれば、必ずや侵略者共に正義の鉄槌《てっつい》を下すことができるでしょう! なに、いざとなれば私が、敵をちぎっては投げちぎっては投げぼぎゃぶっ」 「やかましいっ、馬鹿馬鹿っ」  長剣の鞘《さや》(重たい魔剣入り)で、レインがセノアの頭をぶったたいた。  ヘタヘタ〜とセノアが頭を押さえて潰《つい》える。 「ちっ、期待してたんだがなあ」  グエンが呟《つぶや》き、ナイゼルが小さくため息を吐《つ》く。トドメはレインが刺した。 「結局それかよ。ああっ、なんて使えない奴。俺が田舎へ帰りたくなったぜ」  どうも本気で嘆《なげ》いているようだった。  また誰かが突飛《とっぴ》な意見を出さない内に、ラルファスが割り込む。 「他の者より、私はおまえの策が聞きたいんだ。あるんだろ、なにか策が」  不敵な笑みを見せるレイン。 「……戦いによらず、大軍を退却に追い込む方法が二つある。なにかわかるか」 「一つは敵の指揮官を倒すこと。もう一つは敵の糧食《りょうしょく》を奪うことだ」  ラルファスは即答した。 「偉い! 一山幾らのセノアやユーリとは、大違いだ」  嬉しそうに誉《ほ》めてから、レインは沈黙を守っていたギュンターを振り返った。 「首尾はどうだ」 「はい。マジックビジョンの報告では、部下達は既に準備を終えたとのことです」  ギュンターはすらすらと答えた。 「よし、じゃあすぐに進軍だ」 「おい、レイン。結局どんな策なんだ」 「わからないか……つまり、さっきの二つをいっぺんにやるんだよ」  レインはそう言うと、やっとその策とやらを説明しはじめた……   ——☆——☆——☆——  その後、レインとラルファスの混成軍は強行につぐ強行で、たったの三日足らずで北の国境線付近に到達し、そこに陣を張った。  そこは旧ルナンとの境目で、広大な平野が眼前に広がっている。これより東側と西側は、標高が低いとはいえ山岳地帯になっており、敵が進軍して来るとすればここのはずだ。  レイン達は、ジグレム川という国境にそって海へと流れている川を前方に控え、布陣を完了した。  そのわずか一日後、予想通りザーマイン軍は、地平線の彼方《かなた》から地響きを立ててやってきた。  こちらが待ちかまえているのを認め、早速陣を敷き出す。日頃の訓練を窺《うかが》わせる鮮やかな手際で、全軍をこちらに向けた矢尻のごとき形で布陣した。攻撃する意志、満々である。  予備兵力をも含めた数は、ざっとではあるが四万をわずかに越えているだろう。  驚くべきことに、これはサンクワールの王都、リディアの人口を上回る数字である。  対するサンクワール軍は、ほとんど雑兵《ぞうひょう》に等しい兵士までかき集めたのに、七千にやや足りない。加えて肝心《かんじん》の上将軍《じょうしょうぐん》は、レインとラルファスの二人のみだ。  本当は他の上将軍《じょうしょうぐん》達の部隊がまだいくらか残っていたのだが、彼らは全て、留守を預かっていた城から逃げ散ってしまった。  レインやラルファスの部下達が逃げようとしないのは、彼らがそれだけ部下達に信頼され、慕《した》われていたからだと言える。 『ま、とにかく間に合ったよな。ここで迎え撃てなきゃまずいところだったからな』  クリスの上で、レインはいささかほっとしていた。  とにかく自分の立てた策を活かすためには、ここで——まさにこの場所で敵を迎撃《げいげき》する必要があるのだ。  ギュンターの情報操作が上手くいったのと、敵の進撃速度が意外に遅かったのが幸いした。他の策もあるにはあるが、せっかくギュンターが(というか、彼の部下が)用意した仕掛けが、無駄にならないのは有り難い。  見てろよ、レイグル。俺を殺せなかったのを必ず後悔させてやるからな。  馬上でレインは不敵に笑った。  戦《いくさ》に臨《のぞ》むというのに、その格好はいつもの真っ黒な上下の服で、鎧《よろい》すら纏《まと》っていない。戦いをなめているというかなんというか、見る者をあきれさせるふてぶてしさである。  戦に対する真剣さが足りない、と知らない者が見れば思うだろう。  そればかりか、いきなり機嫌良く歌い始めた。その、低音が効《き》きすぎたあまりにも音痴《おんち》な歌声に、いつもなら周りの部下達は迷惑そうな視線を投げてくるのだが、今日ばかりは違った。  いくばくかの恐怖心と「王女を守る(この戦場に来ているのだ)」という使命感の二重奏に、さしもの元|傭兵《ようへい》達も精神的にかなりまいっている。  そんな彼らも、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》で歌など歌っている自分達の指揮官をチラチラと見て、これなら必ず勝てる! という自信が芽生え始めている。  指揮官が土壇場《どたんば》で落ち着いていればいるほど、下で戦う兵士は安心できるものなのだ。  肝心《かんじん》の責任者があたふたしていては、ついていく者達はたまらない。  その意味では、レインのこの余裕は確実に彼らを安堵《あんど》させていた。 「おっ……セノア、ちょっとこっちへ来い」  レインは自分を見つめている視線の一つに気付き、美しい副官を手招きした。  レインに止められたため、自慢の銀の鎧《よろい》ではなく、簡素なレザーアーマーを身に纏《まと》ったセノアが馬を寄せてきた。 「……将軍、なにか?」  セノアはなぜかいつもの元気がなかった。  なめらかな肌は血の気を失い、切れ長の青い瞳は落ち着きなくあちこちをさまよっている。それでいて、目の前の大軍の方には、まるで目を向けようとしない。  レインはすっと手を伸ばして、セノアの肩を掴《つか》んだ。 「しょ、将軍……」 「いいか、セノア。おまえは俺の副官だ。だからこそ、言っておくことがある」 「は、はあ……」  セノアは珍しくしおらしい顔で、レインを眩《まぶ》しげに見返した。 「間もなく戦いが始まる。ほとんどの連中は元|傭兵《ようへい》で戦い慣れているからいいが、中には今日が初陣《ういじん》の奴もいる」  レインの言葉は、優しい心遣《こころづか》いに溢《あふ》れていた。ポンポンと副官の肩を叩く。 「もし怯《おび》えて吐いたりする奴を見かけても、おまえはそれを咎《とが》めたりせず、黙って気付かない振りをしてやれ。どんな勇者だろうと、最初の戦いでは恐怖と無縁ではいられない。それが普通だし、なにも恥じゃない。……そのうちに恐怖と上手くつきあえるようになるからな。わかったか? わかったら後陣へ戻れ。姫様の警護も大事な役目だぞ」 「将軍……」  貴族の血筋を示す瞳が潤《うる》んでいた。  今の話が実際には誰に向けてのものか、はっきりと理解したからだろう。  くしゃっと顔が歪《ゆが》みかけたが、セノアはなんとか堪《こら》えたようで、代わりにとびきりの笑顔を見せた。 「お言葉は| 承 《うけたまわ》りました。……ところで、将軍は怖くないのですか。その、あんな大軍を見ても」  レインは、この男にしては暗い微笑みを浮かべた。 「俺は恐怖を感じる神経が焼き切れているからなぁ。何も感じないんだよ。ほんとは怖がるべきなんだろうが」  なにか聞き返したそうにしたが、セノアはさすがにそれは無礼だと思ったのだろう。ただ馬上で深々と一礼した。 「将軍のご武運を祈っております。……私もいつかは、将軍と肩を並べて戦えるだけの実力を身につけるつもりです。それまで今少しお待ちください」  そのまま馬首《ばしゅ》を巡らせ、セノアはおとなしく駆け去った。   ——☆——☆——☆——  ザーマイン軍の本陣で、ルミナスは眉間に深い皺《しわ》を刻み、サンクワール軍を睨《にら》みつけていた。  ここしばらく、ルミナスは物見《ものみ》達が持ち帰る不穏《ふおん》な情報……つまり、どこそこで大軍が潜《ひそ》んでいるのを見かけたとか、レインが全軍をこぞって我が軍の背後に回りつつあるとか、そんな情報に振り回されてあまり機嫌が良くなかった。  どうせそんな発見報告は、レインが魔法使いか何かを使った「イリュージョンの術」辺りだろうと思いはしたものの、慎重を期するためには放っておくわけにもいかない。  しかもレイグル王自らが、「レインにだけは注意せよ」とくどいほどマジックビジョンで忠告してきたのだ。慎重すぎるほど慎重になるのも仕方がない。  だが、そのために進軍速度が遅くなったのも事実だ。まあ、だからといって戦況《せんきょう》が変わるものでもないにせよ。  すぐ後で、ルミナスはそんな自分の甘さを思い知ることになるのだが、この時はそう考えていた。 「全く……気に入らないな」  ふと漏らしてしまった愚痴《ぐち》に、馬を並べていたガルブレイクが敏感に反応した。 「なにがだ、ルミナス」 「その……レインという男、勝てる見込みのない戦に、あえて身を投じるタイプではないのです。そんなあやつがここに来ている……これは何か策があるとしか思えません。しかし問題は、一体どんな策やら見当もつかない、という点です。送り込んだ物見《ものみ》も、全て帰ってきません」 「策などないのかもしれんではないか。それに、仮にあっとしても一歩も退《ひ》かずに戦うのみだ」  ガルブレイクは髭《ひげ》をしごきつつ、実に彼らしい答え方をした。 「はあ。しかし、あの男は危険です。その個人的な実力も、指揮能力も。私としても、慎重にならざるを得ません」 「……ルミナス、おまえ、なにかわしに隠してないか。陛下もそうだが、おまえも、どうもあの男に関して慎重すぎるぞ」  じと〜っとガルブレイクが横目を使う。  これ以上隠すのも難しかろうと、ルミナスは重い口を開いた。 『あの男はドラゴンスレイヤーかもしれません』 「なにっ」  さっとガルブレイクが彼の方に向き直った。 「私も詳しいことを知っているわけではありませんが……」  そう前置きして、ルミナスは自分が調べたことを語り始めた。 「レインが辺境の生まれ故郷の村を出て旅を始めたのは、十五歳の時だったらしいです。その目的は明らかではありませんが、不可解なことに、彼はやたらと戦いに身を投じる傾向があるのです。どこかで盗賊団が本拠《ほんきょ》を構えていると聞けば、剣を片手にそこへ一人で乗り込んだりする……そんなことばかりしていたようで。修行のつもりなのか、強くなるためには手段を選ばないようですね、あの男は。  そして十八歳になってすぐ、あの男はさる地方を荒らし回っていた魔獣《まじゅう》……つまりドラゴンがいるという噂を耳にし、あきれたことにその魔獣《まじゅう》の巣へ戦いを挑《いど》みに行きました。  戦いは陽が出てから沈むまで続き、瀕死《ひんし》の重傷を受けながらも、レインはついに魔獣《まじゅう》を倒したそうです。あくまで噂ですがね。  えっ、真偽《しんぎ》のほどですか? 事実だと思いますよ。現に、あの男は二十五歳でありながら、少年のように若々しい。年齢が、魔獣《まじゅう》を倒した十八歳当時で止まっているからです。  ドラゴンを独力《どくりょく》で倒せば、その圧倒的な力、すなわち半永久的な寿命や強大な魔力が手に入るという伝説は、どうやら真実だったようですな。  ただ、今のあいつは、人間とは呼べないでしょうね。単なる人間にしては、いらぬ力を持ちすぎました。なぜそんなに強さを求めているのか知りませんが、やりすぎですよ。無論《むろん》、私が調べた噂が、全て真実だったと仮定してのことですが」  と、渋い顔でルミナスは言葉を結んだ。  本音である。彼とてもっと強くなりたいとは思うが、それでも強大な力を持つ魔獣《まじゅう》に喧嘩《けんか》を売る気にはなれない。レインのやり方は度を超していると思うのだ。  が、ガルブレイクは違った感想を持ったらしく、むうっと唸《うな》り声をあげて感心した。 「ドラゴンスレイヤーか。まさか実在したとはな。騎士として、ぜひ一対一で戦ってみたいものだ。腕が鳴るぞ」  ルミナスは危うく、「おいおい」と言いかけた。  なにを考えているんだ、この人は。勝てるはずないだろうに。相手は最強の魔獣《まじゅう》を倒し、その力をそっくり手に入れた化け物である。強くとも普通の人間にすぎないガルブレイクが勝てるはずがない。  化け物を相手にするのは、同じ化け物にしか無理だ。例えばかつて滅んだ魔人《まじん》か、それとも……あのレイグル王のような。  だがルミナスは、言葉にしては「将軍が直々《じきじき》に戦わなくとも勝てますよ」とおざなりに言っただけだった。  ひょんなことから王の耳に入らないとも限らない。彼は良くも悪くも慎重な男だった。 「とにかく、今は下手に動けません。あやつの策を見極めるまでは」  ルミナスは自分自身に言い聞かせるように言った。   ——☆——☆——☆——  レインが眼前の大軍を眺めつつ平然と歌っていると、周囲の騎士達が小さく歓声を上げ、後陣からラルファスと王女が来たことを知らせた。ラルファスはもちろん完全装備の鎧《よろい》姿。王女は地味な仕立てのドレス姿だ。二人の後ろには、青いレザーアーマーをおしゃれに着こなしたユーリもいる。  グエンとナイゼルの副官コンビは、後陣でおとなしく待機しているようだ。 「レイン、敵は動かないな」  ラルファスが早速、話しかけてきた。 「ああ。ガルブレイクとかいう奴を先頭に、こっちへドカドカ突進してくれたら楽だったんだが——そう上手くはいかないよな。やっぱり、俺がちょっと行って誘いださんと」 「でも、レインが!」  いきなり王女が声を張り上げた。  レイン達が驚いて注目すると、王女ははっとしたように瞳を伏せ、小さい声で言い直す。 「……なにもレインが、自ら先頭に立たなくてもよいではありませんか」  ラルファスとユーリが王女をそっと窺《うかが》い、次にじっとレインを見つめた。……特にユーリの目つきが鋭い(感じがする)。  レインはわざとらしく咳払いなどした後、答えた。 「あのですね、姫様」  クリスの上で精一杯胸を張り、真っ黒な大軍を馬鹿にしたように見やる。 「俺はあんなザコキャラの集団に殺《や》られやしませんよ。タイミングさえ誤らなければ大丈夫。後は逃げ足の速さです。なにせ俺は、ガキの頃には『疾風《はやて》のレイン』と呼ばれてたんですからね。問題ありません」  ラルファスが口を挟んだ。 「おまえは子供の頃、神童《しんどう》と呼ばれていたんじゃなかったか? 前にそう聞いた気がするぞ」 「うるさいな、おまえ。疾風《はやて》のレインとも呼ばれてたんだよっ。男が細かいこと言うな!」 「あ、すまない。だがこの際だ、私も先陣に立とうか? 少しはカバー出来ると思うぞ」 「だめだめ。今回は俺が戦う番だからな。おまえは後陣で、副官二人と姫様のガード。ちゃんとそう決めただろ」  と、今度はユーリが口を挟む。 「でも、レニ隊長があんなんだし、ここは好意を受けた方が良くはありませんかあ」  その言葉に、レインを除く三人が左手の方を見る。そして、顔を見合わせてずぅ〜んと暗くなった。  見ずともレインには分かっている。どうせレニのヤツが、人目につくほどガタガタと震えているのだろう。実力があるくせに、レニは恐がりなのだ。いざ戦いになると、だいたいこんな調子である。 「あいつはいつもあんなんだから大丈夫さ。あれでもいざとなれば、ちゃんと戦うんだ。……ちょっと涙目だけどな」 「……それって、ヤケクソって言うんじゃ?」  さらに余計な突っ込みを入れるユーリ。 「やかましいっ。結果オーライならいいだろうがよ」  レニは震えながらも逃げずにここにいる。それは十分|勇敢《ゆうかん》な行為だとレインなどは思うのだが、他人はそうは見ないらしい。臆病《おくびょう》だとまでは言わなくとも、頼りない気がするのだろう。  しばらくして——。なにかに耐えるように俯《うつむ》いていた王女が、ほんのりと朱に染まった顔を上げ、レインをまっすぐに見つめた。  これまでの震えや恐怖が消え去り、ほのかに微笑していた。 「もうなにも言いません。レイン、あなたにご武運がありますように。わたくしは信じて後陣で待ちます……レインが戻ってくるのを。自分だけ逃げる気はありません。なにがあっても待ちますわ」  おそらく、柔らか〜く、『あなたに命を預けました』と言いたいのだろう。  レインは静かに頷《うなず》いた。 「ラルファス、じゃあ姫様を頼むぜ」 「わかった。くれぐれも死ぬなよ」 「言うまでもない。俺はこんなとこで死ぬような殊勝《しゅしょう》な奴じゃないって」  ラルファスと王女はやっと顔を綻《ほころ》ばせ、馬首《ばしゅ》を返して後陣へと下がっていった。 「……で、おまえはなんで帰んないんだよ」 「王女のあの態度ってなに?」  一人残っていたユーリが尖った声で尋ねた。 「えっ」 「もうっ! えっ、じゃないでしょ。さっさと吐きなさいよ!」  自分の声が届く範囲に人がいなくなると、たちまち敬語をやめるユーリである。ただ、それに関してはレインも人のことは言えないので咎《とが》めはしない。お互い様だ。 「たいしたことじゃない……それより、そろそろおまえも下がれ。もうすぐ本格的に戦いが始まるぞ」 「たいしたことないっていうのは、本当はたいしたことある証拠よ。ったく、手が早いんだから、あんたは」 「だから気のせいだって」 「はいはい。追求はまた今度にしとくわよ。でもさ、真面目な話、先頭切って突っ込んでって大丈夫?」 「ふっ、無用な心配だな。俺は掛け値無しに不死身だぜ? むしろ、敵の方が哀れだね」  レインは例によって、気取った仕草でさっと髪をかきあげた。 「今日は次期君主たる王女も見ているからな、張り切らんと。俸給《ほうきゅう》を払う奴の前では目立たんでいいところまで目立ち、きっちりと戦功《せんこう》を印象づける! これが立身出世の基本だ」 「……それで、君主が見ていないところじゃ、さぼれるだけさぼるわけね。だんだんあたしも、余計な心配をしてる気になってきたわ」  ユーリはあきれたような顔をした。 「じゃ、あたしも下がるから……しっかりね」 「おう。おまえも、狼煙《のろし》を上げるタイミングをミスるなよ。ある意味では一番大事な役目だぞ」 「うん! あたしだって生活があるもん。ちゃんと任務を果たすわよ」  他の者には見えないように身体の前で小さく手を振り、ユーリもまた、後陣へと下がっていった。あの抜け目ない少女なら、タイミングを外すこともないだろう。  後はそう、この俺次第だ。  レインはスラリと魔剣を抜いた。そのまま剣を水平に構える。 「我《わ》が命《めい》に応えろ!」  ブゥゥゥゥゥゥゥウンッ  青白いオーラが乱舞《らんぶ》する刀身が一段と大きな音を立て、ズズズズと長く伸びた。たちまち長槍《ながやり》くらいまで伸びてしまう。大陸中に悪名が轟《とどろ》くこの剣は、どういう仕組みか、ある程度持ち主の意志で刀身を伸ばすことが可能なのだ。  あるいは、流体金属の一種かもしれない——もっとも、自分以外には通じない用語だが。 「閉ざされたちっぽけな世界にも、謎はあるってことか」  レインはふっと笑う。 「まあいい……始めるとするか。おい、レニっ」 「は、はいっ」  呼ばれて、少し離れた場所でレニがビクッと身体を震わせた。 「いくぞっ。遅れずについてこいよっ」  レニは弱々しく笑ってコクコクと頷《うなず》いた。 「い、いつでも、いけま、いけますよ」 「身体の力を抜け、馬鹿。最悪でも死ぬだけだ。あまり悩むな」 「だから、死にたくないんですってばあ」  情けない声で嘆くレニを相手にせず、レインは傾国《けいこく》の剣を高々と差し上げた。 「先陣、戦闘準備!」  ガシャガシャッ!  部下達がそれぞれの武器を構える音が響き渡った。レインの次の合図を、各自が固唾《かたず》を呑んで待ちかまえる。  レインは一度大きく息を吸い込み、叱声《しっせい》と共に輝く魔剣を振り下ろした。 「先陣、突撃! この俺に続けーーーーっ!!」 「おおうっ!」  部下達の喊声を背に、真っ白な流星のごとく、レインを乗せたクリスが一番に飛び出した。足下の赤茶けた大地が矢のように流れ、レインの耳元に轟々《ごうごう》たる風の音が響く。  クリスはまさに、あっという間に部下達を置き去りにしてしまった。なにも不思議はない。この地上に、クリスに追いつける生物は存在しないのだから。瞬《またた》く間に川を渡ってしまう。  レインがまっしぐらに突っ込んで来るのを見て、ザーマイン軍の両脇に展開していた弓兵部隊が慌《あわ》てて矢を放った。  が、クリスのスピードがあまりに速すぎて目測《もくそく》を誤り、ほとんどの矢はあさっての方へと飛んでいってしまう。たまに直撃コースに来た矢は、並はずれた動体視力を持つレインがあっさりと魔剣で叩き落とした。  レインはロクに速度も落とさないまま敵の前衛《ぜんえい》へ躍《おど》り込《こ》み、怒声《どせい》を上げた。 「死にたい奴は前へ出ろっ」  言うなり、ブンッと長槍《ながやり》サイズの魔剣を横に薙《な》ぐ。鮮やかな残光が走り、敵の騎士が三人、まとめて胸を裂かれて絶命した。鎧《よろい》をきちんと纏《まと》っていたのに、傾国《けいこく》の剣の前には紙同然である。 「こ、こいつっ。ふざけ」 「やかましいっ。喚《わめ》く前に手を動かせっ」 「ぐわあっ」  たまたま側《そば》にいた隊長格の男は、みなまで言い終わらないうちに魔剣の刃《やいば》にかかって果てた。  レインは当たるを幸い、暴れまくった。密集している敵兵を魔剣の一振りごとに葬っていく。たった数十秒の間に、たちまち犠牲者の山ができてしまった。 「どうしたどうした!? もっと気合いを入れんかいっ」 「な、なんて奴だ……」  前衛《ぜんえい》を固める騎士達が脂汗《あぶらあせ》をかき、タジタジとなってやや退《ひ》いたところへ、奇声を上げたレニが部下を引き連れて突進してきた。  たちまち辺りに馬蹄《ばてい》の音が入り乱れる。 「うっ、うわわあああああんっ」  半泣き——と言うか半分本気で泣きじゃくりつつ、レニは長槍《ながやり》を手にレインに並ぶ。 「将軍、死ぬときは一緒です!」  そんなことを叫びながら群がる敵兵に突っかかっていく。グスグス泣いている割には鋭い槍《やり》さばきで敵の突き出す槍《やり》を弾き、相手の鎧《よろい》の隙間《すきま》に槍《やり》を突き立てる。  いくら弱気で戦いが嫌いであろうと、レニの騎士としての技量は十分、一流の域に達していた。 「その調子だ、レニ! 戦ってりゃ怖くない、怖くないぞうっ。ガンガン行け! 骨は拾ってやるからなあっ」  無責任きわまりないセリフを吐き、手が霞《かす》むような速さで魔剣を操るレイン。事実、レインが水車のように振り回す魔剣は、残像が幾つも走るせいで複数に分裂しているように見えた。ザーマインの騎士達にとっては悪夢のような男である。  そんなレインの前に、童顔《どうがん》の騎士が震えながら飛び込んできた。 「ぼ、僕だって!」 「——ちっ」  電光石火《でんこうせっか》でその細首を刎《は》ねかけたものの、レインは寸前で魔剣を引き、代わりにさっと相手の腰の辺りを掴《つか》んだ。 「わ、わわっ。な、なにすんだっ」 「なにすんだじゃないっ。おまえには戦場は早すぎる。顔を洗って出直せ!」  言うなり恐るべき馬鹿力で、レインはその騎士を片手で放り投げた。 「わあああああっ」  最低でも鎧《よろい》込みで百キロ以上はあるはずの彼は、あきれるほど高い放物線を描き、信じられないほど遠くへ飛んでいった。 「弱いっ、おまえら弱すぎるぞっ。ぜんっぜんっ相手にならん!」  人間離れしたレインの強さに、彼の部下達は全員が歓声を上げた。益々勢いづいて敵に向かっていく。  反対にザーマイン軍は、レインが見せた力の一端にぎょっとなり、圧倒的な大軍にもかかわらず押され始めていた。 「今のを見たか、ルミナス」  ガルブレイクは、本陣できしむような声を上げた。  彼らがいる場所は、戦場を見渡せるように土を盛って高くしてあるので、レインの戦いぶりが逐一《ちくいち》見える。片手で重装備の騎士を遠くへ放り投げたのを目にして、ガルブレイクとルミナスは呆然としていた。 「……こちらが大軍でよかったですな。同数の兵力ではとても敵わないところでした」  軽く咳払いをしてから、ルミナスはようよう返した。  なんとも敵に回したくない男だが、所詮《しょせん》は個人的な力だ。あいつがいかに武勇を誇ろうと、数万の兵力差を跳ね返すことはできまい。 『弱いっ、おまえら弱すぎるぞっ。ぜんっぜんっ相手にならん!』  はた迷惑かつ、大音量のレインの喚《わめ》き声。  ヒクッ、とガルブレイクが頬をひくつかせる。武芸自慢のこの指揮官にしてみれば、我慢ならない言われようなのだろう。 「将軍、挑発に乗りませんよう。あやつがどうほざこうが、我らの勝利は動きません」 「おまえはそう言うがな、ルミナス。部下達の目もあるのだぞっ。後から、ガルブレイクは本陣で震えているだけだった、などと噂されたらなんとする!」 「指揮官は戦いの指揮をとるのが本分のはず。誰もそのような非難はしません」 「ああ、おまえの考えではそうなのだろうな」  ガルブレイクが殺気だった目を向けてきた。ルミナスは思わず目を逸《そ》らせた。元々が性格の合わない二人なのだ。ガルブレイクが決してルミナスを快《こころよ》く思っていないことは、彼とてよく知っている。 「わしは、戦うためにここに来ているのだ。あんな若造になめられたままではいられんっ。忍耐にも限度があるっ」 「将軍! 早まったことをしては——」  驚いたルミナスが制止しようとしたとたん、また最悪のタイミングで、馬鹿でかいレインの罵声《ばせい》が響いてきた。 『ガルブレイクとか吐《ぬ》かす腰抜けはどこだあ! いっちゃん後ろで震えてんのかああっ』 「お、おのれえええっ」  くわっとガルブレイクが巨眼を剥《む》いた。  槍《やり》をよこせっ! と従者に吠《ほ》える。 「将軍!」 「うるさいっ。これだけ侮《あなど》られて黙っていられるかっ。わしは己の剣と槍《やり》だけでここまでのし上がったのだ。ここで敵に後ろを見せたりはできんっ。おまえはここで兵数でも数えておれっ」  激怒して真っ赤になったガルブレイクは、わしに続けっと怒鳴り立て、馬に鞭《むち》をくれて駆け去った。 「くっ。愚《おろ》かなことを!」  ルミナスは歯ぎしりしたが、ここでガルブレイクを見捨てるわけにはいかない。総指揮官の死は、全軍の瓦解《がかい》に繋《つな》がるからだ。それに、副官としての責任も問われかねない。 「全軍、前へ! 将軍に続けっ。あの方を死なせてはならんっ」  敵軍の奥深くで砂塵《さじん》が上がるのを見て、レインは自分の策の第一段階がうまくいったのを知った。  ガルブレイクという男は武勇が自慢だそうだから、挑発のやり方次第では引きずりだせるだろうと思った通りである。  このまま一騎打ちに持ち込めればことは簡単だが、あいにくと「おまけ」も大勢ひっついてきたようである。それに、首尾よくレイン自身が彼の相手をできるとは限らない。  レイン以外の並の騎士では、ガルブレイクの相手は難しいだろう。  なら、ここは予定通りに行くか——  即座に方針を定めたレインは、横で戦うレニに目配《めくば》せをした。  敵の出方を窺《うかが》っていたレニはすぐにその意味を察し、小さく頷《うなず》く。  その後。  徐々《じょじょ》に戦いの流れが変わった。打ち合わせ通り、わざとらしくならない程度に、レイン達サンクワール軍は退《ひ》き出す。  あたかも、最初こそまぐれ勝ちが続いたが、敵の大軍に辟易《へきえき》して崩れだした——と思わせるように。狙いは当たった。  芝居気たっぷりに疲れた振りをして後退するサンクワール軍を見て、ザーマイン軍は今こそ逆襲《ぎゃくしゅう》の好機とばかり、どっと攻め寄せてきた。  レインは少しも疲れていないにもかかわらず——、もはや限界が来たかのように肩を大きく上下させ、魔剣を操《あやつ》る手先を鈍らせる。さりげなくガルブレイクを含む敵の援軍《えんぐん》の位置を確認し、さっと剣を振った。 「ちいっ。一旦|退《ひ》けっ、退《ひ》けっ」  その合図を待ちかねたように、サンクワール軍は一斉に後退を開始した。  誰がどう見ても、ついに敵を支えかねて潰走《かいそう》したように見えただろう。 「うわあああ、殺されるうううっ」  レニの悲鳴も、芝居っ気たっぷりっである……いや、本気のアレかもだが。  そして、敵軍に紛《まぎ》れ込《こ》ませた、複数のレイン側|間諜《かんちょう》の喊声《かんせい》 『敵は崩れたぞおっ。今だ、首を逃すなー』  ザーマインの騎士達は戦が最終段階に来たことを確信して、喚《わめ》きながら追撃に移った。後は敵の首を一つでも多く取るだけだ、と一人残らず思いつつ。   ——☆——☆——☆——  レイン達が、激しい攻撃から一転して退却に移った時、まさに真っ黒な大軍がどっと獲物に襲いかかるように見えた。  ——少なくとも最後陣のセノアには。  それが策だと知りつつ、一瞬、本当にレインが耐えかねて退《ひ》くように見えたのである。  どん欲なまでの激しさで追撃を始めたザーマイン軍を遠望し、セノアは身の震えを押さえられない。馬上にあって、思わず自分の太股の辺りを、痛いほど掴《つか》んでしまう。  どうしてさっき、将軍と共に戦わせてください、と言えなかったのだろう。  将軍が断るに決まっているから? そう、確かに断られただろう。だが仮に、願いを聞き届けてもらえたとしても、自分は絶対に一緒に戦えはしなかった。  理由はわかりきっている——怖いからだ!  セノアの体が小さく震える。なんて……情けない話だろうっ。  日頃、あれだけ大言壮語《たいげんそうご》し、事あるごとにあの人を非難し続けていたのに……いざ自分が戦場へ来るとこの有様《ありさま》とは!  こんなことで、一体、いつになったらあの人に認めてもらえるのだろう。  誰にも話したことはないが、セノアは戦士としてのレインに惹《ひ》かれ、彼の元へ走ったのである。  あの強さ、あの男らしさに憧れている。  ……ずっとそう思ってきたし、そう信じていた。  しかし、さっきのように優しい言葉をかけてもらうと、その自信がぐらつく。  ただ強いだけが、この人の魅力ではないわ……そう思えるからだ。  現に、初めてあの人を見かけた日のことや、最初に言葉を交わした瞬間、あるいは優しくしてもらった時のこと——それらを全て鮮明に覚えている。 『そんなに固い顔で構えるなって。……無理に自分を作ることはないんだぞ? せっかく美人なんだから、笑ってみろよ』  コートクレアス城での着任|挨拶《あいさつ》の時、あの人は穏やかにそう言った。  少し語り合った後、こうも言われた。 『より強くなるために、すぐにも戦いたいだと? よせよせ、そんな大馬鹿は俺だけでたくさんだ』  その時、窓際に腕を組んでもたれていたあの人の顔から不敵な笑みが消え、ひどく哀しい表情になったのが、今でも忘れられない。  思い出す度に、ため息がでる。  あの表情には、どんな意味があったのだろうか。  さっき温かい言葉をかけてもらった時と、同じ顔をしていたように思うのだ。  でも多分——今の私には、あの人は決して話してはくださるまい……  セノアは奥歯を噛《か》み締める。  父が望むような人間にはなれなかった私だが、せめて誇り高く、強い騎士でありたい。  いつの日にか、あの人と肩を並べて戦える戦士になりたいのだ。  だからお願いです……もう少し私に時間をください。  先に逝《い》かないでください—— 「……レイン将軍」  かすかな声に誘われたように、誰かがそっとセノアの腕に触れた。  ぴくん、と肩を震わせて横を見ると、いつの間に後ろから来たものか、シェルファ王女がすぐ隣にいた。  腕に触れた手をそのままに、じっとセノアを見つめる。  美しく透《す》き通《とお》った表情と共に、あたかも己の覚悟を分け与えるように。 「大丈夫です、きっと。あのレインが、こんな所であんな人達を相手に、死ぬはずがありません。……信じて待ちましょう」  囁《ささや》く声には、レインへの無限の信頼と——セノアに対するいたわりが窺《うかが》えた。  唯一、軍装ではなく平服のシェルファであったが、いまこの瞬間、誰よりも落ち着いて見えた。  これまでセノアは、この王女に対する密かなわだかまりがあったのだが——彼女の瞳を見て、そんなモノはどこかに消し飛んでしまっていた。  自分も自然と手を伸ばし、王女の手を握る。  小さく、何度も頷《うなず》く。 「そうですね……あの方ならきっと」  二人は顔を見合わせ、微《かす》かに微笑みあった。   ——☆——☆——☆——  サンクワール軍を裏切ってダグラス王の首を取ったガノアは、もちろんこの戦いに参戦していた。ただし、その持ち場は手柄を立て易い前線などではなく、全軍の遙《はる》か後ろ……もっと端的に言えば、補給部隊である。  ザーマイン軍の糧食《りょうしょく》を管理し、守ること。それがガノアに与えられたポジションだ。お陰で全軍が追撃に移った今、足の遅い彼の部隊はポツンと本隊から離されてしまった。 『くそっ、俺はサンクワールの誇り高き貴族だったんだぞ! ガルブレイクめ、俺をないがしろにしやがって』  ガノアはクルクルした金髪の巻き毛を手で弄《いじ》りながら、うんざりして荷車だらけの自分の部隊を見渡した。こういうのは歩兵の仕事ではなかろうか。  これでは手柄を立てるどころではない。  ここまで彼についてきた部下達も、どこかだらけた様子でしおたれている。彼らもまた、程度の差こそあれ貴族が多く、よって不満たらたらなのだ。  なんとなく部下達の自分に向ける目が、冷たくなった気がするガノアである。  予定では、恩賞《おんしょう》の一部としてシェルファ王女を望むつもりだったのに、これではそれもままならん——  好色なガノアが悶々とそんなことを考えていると、ふとずっと前方のサンクワール軍の方で、空に向かって狼煙《のろし》が上がっているのが見えた。 「なんだ? 今更なんの合図だ? レインが死んだとかいう合図なら大笑いだが」  と、予想と言うより希望と言うべき呟《つぶや》きをもらす。  まあそれはないにしても、ガノアが見るところ、冗談抜きで戦《いくさ》はもう決まりだ。  ガルブレイク自らが指揮する直属部隊は、既にジグレム川を渡り、サンクワール軍の本陣に迫っているようだ。レインの悪運もここまでだろう。  気にくわない境遇にある自分だが、あいつの生首を見ることができるのは唯一の慰めである。  許されるなら、レインの首をもらって自室に置きたいくらいだ。それくらいガノアは、レインが嫌いだった。 「本気で望んでもいいな……ん?」  ガノアは眉をひそめた。  どこからか、微《かす》かに妙な音が聞こえる。  耳をすますと、その音は段々大きくなってきた。  この音は……水が流れる音……か? 「ガノア将軍!」 「ん、なんだ」  じっと聞き耳を立てていたガノアに、彼の副官が声をかけた。 「か、川の上流を!」 「上流? 上流がどうしたと——なにっ」  ……ガノアが目にしたのは、膨大な量の水が奔流《ほんりゅう》となって流れてくる光景だった。  洪水かと思うような激しい水流が、渡河《とか》中のザーマイン軍に襲いかかる。逃げる暇もなく、重装備の騎士達が白く粟立《あわだ》つ川の水に呑み込まれた。鎧《よろい》を着込んでいる以上、あれでは溺《おぼ》れる他あるまい。 「な、なっ……」  あれよあれよと思う間に、既に渡河《とか》を果たしていた部隊は、後続の本隊と強制的に切り離されてしまっていた。  その川向こうに残された一部の不運な騎士達に、わっとばかりにサンクワール軍が襲いかかる。 「これは……くうっ、レインだなっ。小細工をしやがってっ」  意外に頭も切れるガノアは、即座に悟っていた。これはレインの策に違いないと。  つまり、ジグレム川の上流で水をせき止めておき、ガルブレイクを川の向こうに誘い込んで、合図と共にせき止めた水を流す。  結果として、味方と分断されたガルブレイクを(あわよくばルミナスも)仕留める気だったのだ。 「おのれ、おのれっ」  怒りのあまり、単純な文句を延々と吐き続けるガノア。  だが、彼はすぐにそれどころではないことに気付いた。  いや、気付かされた。——レインの策に、二つめのポイントがあることを。 「将軍!」 「ええいっ、今度はなんだっ」  部下を怒鳴りつけようとした彼は、副官が指し示す方を見てぞっとした。  疾風《しっぷう》のごとき速さで、自分達のさらに後方から小部隊が接近してくる。  彼らは敵の糧食《りょうしょく》を狙う目的で、レイン達に先行して潜んでいたギュンターの部隊なのだが、もちろんガノアはそんなことは知らない。しかし、嫌でも彼らの目的は想像がつく。  ガノアは焦って味方を振り返った。  あいにく、全ての部隊は総攻撃に移ったため、ずっと前方にいる。それも思わぬ事態で動揺しまくっていた。遙《はる》か後方にいるガノアの窮地《きゅうち》に素早く対応できる距離ではないし、それどころでもないようだ。  だいたいザーマイン軍にとって、ガノアは所詮《しょせん》よそ者だ。それほど助けたい仲間ではないのである。  加えて最悪なことに、荷車だらけの部隊では逃げるのもままならない……ガノアは冷たい恐怖心が背筋を這《は》い上がるのを感じた。  敵の部隊が掲げる松明《たいまつ》の火が、幾つも見えた。  ザーマイン軍の後尾で煙が上がるのを見て、レインは会心の笑みを浮かべた。  予定通り、ギュンターがやってくれたらしい。あの煙は、敵の糧食《りょうしょく》が燃えている証拠である。これで勝負は見えた。 「おい、おまえらっ! おまえらのメシは一粒残らず灰になっちまったぞっ。もう無駄な抵抗はよせ!」  まだ戦っていた漆黒《しっこく》の騎士達に、大声で宣告する。  めざましい効果があった。  最後の力を振り絞って戦っていた者達が、次々と武器を投げ出して降伏していく。補給物資(食料)がなければ戦《いくさ》などやっていられない。それがわかりすぎるほどわかっていたからだ。  闘志のみで戦えると信じる者は、さすがにザーマイン軍にはいないようである。  だが、良い意味で例外もいた——  丸腰になって膝を屈する騎士達の集団の中を、一人の恰幅《かっぷく》のいい騎士がゆったりとレインの方へ来る。  血で染まった剣を手に、しっかりとした足取りで。他の者と違い、肩の部分に金線が飾られている。 「——ふむ?」  男の正体を瞬時に見破り、レインはクリスから降りた。魔剣をシュッと一振りして元の長剣サイズに戻してから、男を……いや、遠征《えんせい》軍の総指揮官を待ち受ける。 「おまえがレインか」  黒い鎧《よろい》のあちこちがベコベコへこんだ上、その所々は真っ赤な血で彩られていたが、ほとんどは返り血らしい。本人はぴんしゃんしていた。さすがに完全実力主義のザーマインだけあって、侮《あなど》れない戦士のようだ。 「ああ。ガルブレイク将軍……だったな?」 「そうだ。最後の挨拶《あいさつ》にきた」  言葉少なにそれだけを言い、ガルブレイクはむしろさばさばした表情で剣を構えた。  大喜びで集まってきたレニを初めとする仲間達が、はっとして足を止める。誰も声をかけようとはしなかった。 「一つだけ尋ねてもいいか?」  同じく魔剣を構えたレインに、ガルブレイクがポツリと訊《き》く。 「なんだ?」 「おまえがドラゴンスレイヤーだというのは本当か」 「……ああ、事実だ」  とレインが答えると、集まってきた仲間達のうち、レニとセノアとユーリの三人はどっしぇぇぇぇぇっ! という顔でのけぞり、ラルファスとグエンは信じられないという風に首を振り、ナイゼルはキラッと目を光らせた。  一番ショックの少なそうだったのはシェルファ王女で、ただひたすら憧れのこもった眼差《まなざ》しでレインを見つめていた。あまり驚いていないようだ。 「そうか、魔獣《まじゅう》を倒した者か。ふふふ。どうやら人生の最後に、最強の敵とまみえることができたらしい。それを思えば、悪くない死に方だ」  どこか突き抜けたように、ガルブレイクは破顔《はがん》した。 「ここは一旦降伏して、再戦を期すという選択もあるだろう?」 「いや、ないな。陛下はそんな甘いお方ではない。どうせ国へ帰れたとしても、わしは必ず殺されるだろうよ」 「なら、無理に帰らずにここにいろよ。俺達の仲間になればいい」 「変わったことを言う奴だな……変人だと聞いたが、噂に違《たが》わぬらしい」  不思議そうにガルブレイクは首を傾《かし》げた。 「だが礼だけは言っておこう。申し出は有り難いが、その気はない。さあ、話もこれくらいにしておこう。……もちろん、相手をしてくれるのだろう?」 「仕方ないな……」  レインも強《し》いては降伏を勧めなかった。この男にラルファスと同じ匂いを嗅《か》ぎつけたからだ。  敵に降《くだ》るのを潔《いさぎよ》しとしない性格の男であれば、これ以上は致し方ない。  剣を一見無造作に構え、相手を見据《みす》える。  ガルブレイクの方は身体の前に剣をまっすぐに立て、一瞬ピシッと直立不動の姿勢を取った。一騎打ちに臨《のぞ》む時の騎士の作法である。  レインは作法など知ったことではない。ただ黙したまま、相手を観察するだけだ。  ザザッとすり足で、ガルブレイクが間合いを詰めた。ゆっくりと、構えた長剣を横に引く。風が、砂埃《すなぼこり》をともなって二人の間を吹き抜けた。  先手はガルブレイクがとった。  だっと駆け出し、残りの距離を一気に詰める。足下から土を跳ね上げつつ、十分に体重の乗った重い一撃を繰り出す。剣腹《けんぷく》は銀光と化し、レインの急所へと吸い込まれていく。  ブンッ  見る者が息を呑むような一撃は、凄腕《すごうで》の騎士にふさわしい鋭さだった。長剣が、容赦なくレインの胴を薙《な》いだように見えた。だが実際に剣が裂いたのは、陽炎《かげろう》のように消える、レインの影だけだ。  またしても風が吹いた。ただし、今度はレインが巻き起こした風が。  疾走するレインの後を追うように、残像がガルブレイクの横を通り過ぎ、彼の背後へと綺麗に流れていく。  風が収まり、二人が静止する——同時に、全ての残像はレインの立ち姿へと収束《しゅうそく》した。  魔剣を振り切った前傾姿勢から、静かに構えを解く。すると—— 「——! がっ」  ガルブレイクの身体にパッと赤い線が弾け、ドロリと血が溢《あふ》れた。ごふっと咳き込み、よろよろっと歩く。そのまま、ガルブレイクは重々しい音を立てて倒れた。 「さすがだ……おまえ、つ、つよいな」  俯《うつぶ》せの状態で顔を半分砂地につけ、ガルブレイクが言った。  レインは静かに低頭する。 「あんたも強かったよ。さすがに遠征《えんせい》軍の総指揮官を任されるだけのことはある。これは世辞で言ってんじゃないからな」  ふっとガルブレイクは笑ったようだった。  血のにじむ唇を無理に開き、最後に彼は何事か呟《つぶや》いた。誰か女性の名前だと思うが、あいにくレインが急いで跪《ひざまず》いた時には、彼はもう事切れていた。  虚《うつ》ろに開いたままの目を、レインはため息を吐《つ》きながら閉じてやった。  やれやれ……あまりいい気分じゃないな。他に方法がなかったとはいえ。  一振りして血を落とし、レインがパチリと魔剣を鞘《さや》に戻すと。 「勝った……我らの勝ちだ」  惚《ほう》けたようにセノアが声を出した。 「そ、そうだ! 我々は勝ったんだ、あのザーマインにっ」  今気付いたように、セノアの近くに立ち尽くした騎士の一人が言う。その声はたちまち辺りに伝染し、大地を揺《ゆ》るがす歓声《かんせい》になった。 「勝った! 勝ったぞ! あのザーマインに勝ったあああっ」  大波のように歓声《かんせい》が広がっていく。騎士達は、側《そば》にいた仲間と手に手を取って足を踏み鳴らした。  逆に捕虜となったザーマインの騎士達は、全員ががっくりと頭《こうべ》を垂《た》れていた。川向こうで手が出せずにオロオロしていた敵の本隊も、潮《しお》が引くように撤退《てったい》を始めている。糧食《りょうしょく》を失い、総指揮官も倒されたとあっては他にしょうがないのだろう。 「やったな、レイン」  いつの間にか馬に跨《またが》っていたラルファスが、二人の副官を従えてレインを見下ろしていた。 「なんだよ? 戦いは終わったじゃないか」 「ああ。だが、ルミナスを仕留め損なったようだからな。ザーマイン軍の退却を見届けるついでに、ルミナスを追ってみる」 「追ってみるって……川はまだ増水したままだぞ」 「五キロほど下流へ行けば、小さいながらも橋があるさ」 「……別に止めないけど……真面目な奴だなあ、おまえ」 「これも性分でな。それよりレイン」  ラルファスは馬上で身を乗り出した。 「帰ったら、一手つきあってくれるな?」 「一手? なんかのゲームか?」 「とぼけるな。身近にドラゴンスレイヤーがいるとなれば、騎士としてぜひ手合わせをしてもらわねば」 「きっぱりと断る(即答)」  めんどくさいのは嫌いである。 「そりゃないですぜ、レインの大将! 俺もウチの大将の次に相手をしてもらうってことで、話はもうまとまってるんですぜ?」  グエンがさも当たり前のように言う。 「こらこらっ。本人を無視して勝手にまとめるんじゃあないっ。んな汗かくこと、俺は嫌だからなっ。だいたい——そうっ、ちょっと今は身体の調子も思わしくなくてだな」 「私の城に戻ってから、たっぷりと練習の相手をしてもらうぞ」 「いや、ほんとになんか調子悪くてさ。なんていうか、身体が重いって感じでこりゃマジでちょっと具合が悪いっていうか、休暇を取って薬師《くすし》のトコ行かなきゃっていうか——」 「ふっふっふっ。腕が鳴りますぜえ」 「それに、最近とみに肝臓の調子が悪くて」 「じゃあな、しかと約束したぞ」  ラルファスが手綱を引き、馬首《ばしゅ》を巡らせた。わざとらしく腹を押さえたりしているのに、レインは全然相手にしてもらえなかった。  それどころか黙していたナイゼルまでがぼそっと駄目押しをする。 「私もレイン様と戦ってみたい」 「……少しは人の話を聞けよ、おまえら」 「あ、それからな、レイン」  ラルファスは去る前に笑顔で振り向いた。 「なんだよっ」 「おまえが手で押さえているのは、胃のあたりだぞ」 「やかましい! もう帰ってくんなっ」  ラルファスはなにが面白いのか声を上げて笑いながら、部下達を引き連れてさっさと行ってしまった。 「ちっ。剣の稽古《けいこ》なんか付き合ってられるか。絶対逃げるぞ、俺は」 「将軍〜」  ラルファスらが行ったと見るや、今度はレニ達が駆け寄ってきた。 「なんだよ。おまえもなんかあんのか」 「ありますよ! どうして今まで、ご自分がドラゴンスレイヤーだってことを黙ってたんですか」 「俺はこう見えても奥ゆかしいからな。そんなこと自慢できん」  レインが素《そ》っ気《け》なく答えると、レニはまるで大声で卑猥《ひわい》な言葉を聞かされたような、なんとも言えない顔つきをした。 「……なんだ、そのツラは。だいたいおまえ、俺がたまに魔法を呪文なしで使ったりしてるのを見てきただろ。普通は気付くぞ」 「将軍のやることにいちいち驚いていたら、自分は身がもちませんて」 「馬鹿言え。おまえがのんきなだけだ」  レニを適当にあしらいつつ、レインがセノアやユーリを見ると、二人ともポカンとして突っ立っている。度肝《どぎも》を抜かれたままのようだ。他の部下達もおおむねそんな調子で、みんな、ぶったまげたなあとそれぞれの顔に書いてあった。  こんな風に大げさになるからこそ、言いたくなかったのである。 「……レイン」  いや、一人だけ態度が変わらない者もいた。シェルファ王女がためらいなくレインの手を両手で握りしめ、キラキラした瞳で微笑んだ。傍《かたわ》らのレニが驚いている。  今度から簡単にそういうことをしないように、注意しておくべきだろう。 「お疲れさまでした、レイン。……あの」 「はい?」 「た、戦いが終わったら、レインにぜひ言いたいことが……いえ、言わなくてはならないことがあったんです」  王女は、なぜかもじもじし始めた。  なにかを気にするように、レニ達をチラチラと見ている。  金を貸してくれ、という類《たぐい》ではあるまい(当たり前)。では、内緒の相談ごとか、とレインは思った。 「なんか相談ですか」 「……似てますけど、少し違います」  全然わからない。  多分、二人きりになればもっとサクサク話してくれるのだろう。どうもこのチビ(今は背もそこそこ高く、チビでもないのだが)は、俺以外の奴にはなかなか心を開かないようだから。 「いいですよ、姫様。一旦ガルフォート城に凱旋《がいせん》してから聞きましょう」 「はい!」  ほっとしたように、王女は何度も頷《うなず》いた。  こっそりと王女に片目をつぶりニッと笑ってから、レインは部下に合図して陣をまとめる準備をさせようとした。  だがそこで。  レインは急に、ゾクリとするものを感じた。  プレッシャー。  レインの全身を、瞬く間に冷たい汗が覆《おお》った。どこか近くに——大瀑布《だいばくふ》の水圧にも似た、圧倒的な力の波動を振りまく奴がいる。  しかもこの力の波動、いわゆる『気』には、シェルファ王女から感じられるそれとは決定的に違う点があった。  単純な力だけではなく、凍りつくような殺気が感じられるのだ。  強大な力を感じさせる存在を求めて、レインは辺りを見渡した。  ——いた。  黒いマントを身に纏《まと》い、上等な仕立ての黒い上下の服を着こなした、レインの向こうを張るような黒ずくめの男が、部下達の間をゆったりと歩いてくる。  ザーマインの民に特有の銀髪をしているのに、誰も誰何《すいか》しようとはしない。  男があまりに堂々としているせいにせよ、少し異常な光景だった。男は長い前髪の下からじっとレインに視線を当て、あたかも自分の家の庭を散歩するような落ち着いた態度でこちらへと来る。 「レイン……」  部下達の誰よりも先に、王女がその男に気付いた。なにか不吉な気配でも感じたのか、レインの腕にしがみつき、息を呑んで男を見ている。 「——姫様、少し下がっててください」 「レイン……わたくし、あの人を見ているとなぜか——」 「わかってますよ」  レインは皆まで聞かずに遮《さえぎ》る。 「どうせ敵でしょうしね」 「なんのお話ですか」  いらついたようなセノアの声。  レインは、黙って男を指差した。  と、ユーリがかわいい顔を強《こわ》ばらせた。 「レ、レイグル王!」 「な、なんだってえっ。ほんとかいっ」 「敵の王だとっ」  ユーリの発言でぎょっとなったのか、今になって不審な男に気付き、周りの部下達が一斉に騒ぎ始めた。  レニとセノアが慌《あわ》てふためいて抜刀《ばっとう》しようとする。 「みんな、よせ! そいつの相手はおまえらじゃ無理だ。おそろしく強いぞ、そいつは」 「ええっ。じゃ、将軍に任せます」  ささっと抜いた剣を鞘《さや》に戻すレニ。  いつもなら蹴飛ばしてやるところだが、今日ばかりはそれで正解だ。 「さあ、姫様も下がって。レニの側《そば》で見ていてください」 「……どうか気をつけて、レイン」  自分が足手まといでしかないことをよく知っているのだろう。王女は素直にレニの側《そば》へ下がった。 「他の奴らも剣を抜くのはよせ! そいつは俺に話しがあるらしい……そうだよな?」  やや距離を置いて立ち止まった男……レイグル王に、レインは語りかけた。 「そう。俺が興味あるのはおまえだけだ……それにしても、俺も意外に有名らしい」  ユーリの方をちらと見て、レイグルは唇の端を小さくつりあげた。ひっと声を上げてレニの背後に隠れるユーリ。そんなに焦らなくても、王たる立場にある者が間諜《かんちょう》一人一人の顔など知るはずもないのだが。  レインの部下達を冷たい目で眺めていたレイグルは、王女を見るときだけ、うん? というような表情をした。何か不可解な者を見たという様子だ。 「レイン以外に感じた、もう一人のプレッシャーの正体がこの娘とは……妙だな」  少し考える素振《そぶ》りを見せた後、レイグルは首を振ってレインに目を戻した。 「まあいい。ガルブレイクが早々と敗れたのは予定外だが、今日の狙いはおまえだからな」 「俺が狙いねえ。返り討ちという言葉を知らんな、おまえ? どうやってここに来たのか知らんが、こっちにも好都合だ」 「俺は、一度行った場所なら、どこでも跳《と》べる特技がある。驚くこともあるまい」  驚くに決まってるだろクソ馬鹿野郎、とレインは思った。  彼の知る限り、そんな都合のいい魔法など聞いたこともない。レインはこれで、たいがいの魔法に通じているのにだ。 「ところで、今日の敗戦は敗戦として、少し確かめたいことがある」  レインの疑惑など歯牙《しが》にもかけず、あくまでも淡々とレイグルは言った。どうも、敗戦のことなどどうでもいいようだ。  何気なく、レイグルが、つっと片手を伸ばした。 『我が魔光よ!』  とたんに、掌《てのひら》から呪文も無しで膨大《ぼうだい》な光が生まれ、一直線にレインに向かって走った。目も眩《くら》むような光の束が、避ける暇もなくレインに激突する。 「将軍!」 「レインっ」  レニと王女の叫びが重なった。  が、巨大な魔力エネルギーは、何かに遮《さえぎ》られたかのように威力《いりょく》を失い、跡形《あとかた》も無く消滅した。  ほんの一瞬、レインの周りに透明なシールドのような物が現れ、攻撃を受けると虹色に変色し、すっと消えたのだった。  まるで、レイグルの放った魔力エネルギーを吸い取ってしまったかのように。事実、光が消えた後もレインは平然と立っていた。 「ふむ。ドラゴンが備える——アンチ・マジック・フィールドか」  さほど残念でもなさそうに、いや、それどころか口元に笑みさえ浮かべ、レイグルは手を下ろした。 「最強の魔獣《まじゅう》が持つ能力を使えるということは、ドラゴンスレイヤーに間違いないようだな」 「ふん。わかってるんなら、無駄な努力はやめとけよな」  イヤミなほど白いとよく言われる真っ白な歯を、レインはたっぷりと見せつけた。 「魔獣《まじゅう》の力を受け継いだこの俺を、甘くみるな。なまっちょろい攻撃魔法なんざ、俺には効《き》かんっ。魔獣《まじゅう》に効かないような攻撃は、俺にだって無効《むこう》なのさっ」  レイグルはなにも反論せず、満足そうに目を細めただけだった。レインはじろっとレイグルを睨《にら》みつけた。 「にしても、刺客《しかく》は寄越《よこ》すわ、いきなり出てきて不意打ちは食らわすわ、いい加減頭にくる奴だな、おまえ。俺に喧嘩《けんか》を売ると後が怖いぞ、コラ!」  言下《げんか》に、レインの頭上で複数の光球が生まれた。輝くオレンジ色の魔力の固まりは、揺らめきながら大きくなり、それぞれが、レインの頭上で大きく乱舞《らんぶ》しはじめる。  しかも、数がどんどん増えていく。 「消えろっ」  さっとレインがレイグルを指差した途端、全ての光球が光の尾を引き、レイグルに殺到《さっとう》する。  ——命中した。  大輪の花が咲くように、レイグルの身体にいくつもの閃光《せんこう》が弾けた。  強大な魔力による業火《ごうか》が、彼の身を焼き尽くさんとエネルギーを全解放する。生身の人間ならば、絶対に助からないはずだ。 「やった! さすがは将軍!」  レニが、片手を天に突き上げた。 「いや……まだだ」 「またまたあ? 今のをくらって——」  生きているはずないですよ、とでも続けるつもりだったらしいレニの目が、驚愕《きょうがく》に見開かれる。光が収まった後も、服装すら乱すことなくレイグルが立っていたからだ。 「ふふふ……ふはははははっ!」  レイグルがいきなり笑い始めた。まるで込み上げた喜びに耐えかねたように。 「この圧倒的な力! これは驚いた。人間|風情《ふぜい》がここまでの力を得るとは!」 「危ない宗教でもやってんのか、おまえは」  レインは不機嫌な声を出した。 「わけのわからん奴だ。ドラゴンスレイヤーでもなさそうなのに、呪文もなしで魔法を使いやがるし」 「当然の疑問だな。俺とおまえは、ある意味ではとても似ている。この大陸の人間共を遙《はる》かに凌駕《りょうが》しているところがな」 「なんだって? 俺は人間だぞっ」 「まあ聞くがいい。俺は前からおまえに目を付けていた。無能なダグラス王をおまえが見捨てたと聞いた時、おまえなら俺の気持ちが理解できるのではないかと思ったのだ」 「……なにが言いたいんだ、おまえは」 「存外《ぞんがい》鈍いな」  落ち着き払ってレイグルは続けた。 「俺の部下になれと言っている。これほどの力があれば、俺の片腕として手厚く遇《ぐう》しよう。おまえにはその資格がある」 「なにを言い出すかと思えば……」  レインはあきれ果ててレイグルをしげしげと見た。だが少なくとも相手は本気なようで、端正な顔は真面目そのものである。 「それほど荒唐無稽《こうとうむけい》な話でもなかろう? おまえは既に先王を見限っている。ここで俺についたとて、なにがおかしい? そう……ゆくゆく俺は全大陸を制覇《せいは》する。その時はまた新たに恩賞《おんしょう》を与えるとして、今は手始めに旧ルナンの地を。さらに後で、このサンクワール全土を与えるぞ」 「む……それはまた気前がいいな……」  少なからず驚き、レインは腕を組んだ。かつて自分をここまで高く評価してくれた者がいただろうか? いや、いない!  などと一人でひたっていると、たちまち周囲からブーイングが飛んできた。 「な、なにを真面目に検討モードに入ってるんですかーっ。自分は情けないですよっ」 「レニ殿の言われる通りですっ。敵の王に尻尾《しっぽ》を振るなど言語同断《ごんごどうだん》!」  副官二人がぎゃんぎゃん喚《わめ》く。どさくさにまぎれてユーリが、「このばかーっ!」と叫んでいた。 「ちょっと感心しただけだろっ。——こら、ユーリっ、おまえは後で殴るっ」  すかさず怒鳴り返してから、ふと気になって、レインは王女を見た。  ……一点の曇りもなく澄《す》んだ瞳が、全幅の信頼を込めてレインを見つめ返していた。  俺への信頼は本物か。ならば、俺も本気でこいつに賭けるか!  レインは軽く王女に手を上げ(他はむかつくから無視)、レイグルに目を戻した。 「あいにく、そうもいかないね。おまえにつくと、見捨てちゃいけない奴らを見捨てることになる。覚悟を決めてもらおうか」  レインの宣言に、レイグルの顔がすっと表情を失った。冷たい、あまりに冷たい光が、その黒い瞳に宿る。 「……わからんな。なぜこんなゴミ共に肩入れする。おまえも所詮《しょせん》は、情に縛られる愚《おろ》か者だったか」  レイグルは冷え冷えとした目を細め、 「そう言えば、おまえはいつも黒ずくめの姿らしいな。まさかとは思うが、それは誰かの死を悼《いた》んでいるせいか? 辺境の方で、そんなくだらん風習があるそうだが」  レインはギリッと奥歯を噛《か》みしめた。視界の隅で王女がはっと顔を上げるのが見える。 「なんのことだかさっぱりだね。だが、やっぱりおまえは気に入らないな。戦うしかなさそうだ。……それにな」  誇らかに続けた。 「おまえからおこぼれをもらうぐらいなら、俺は自分の力で世界を手に入れてみせる!」 「……どうやらおまえの傲慢《ごうまん》さを思い知らせる必要があるらしい。自信も程度物だ」 「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が俺の売りでね」  レインは、お得意のふてぶてしい笑いを見せつけ、魔剣を抜いた。主人の戦意を感じ取ったかのように、刀身がいつにも増してまばゆい魔力の輝きを放つ。  レイグルもまた、マントをばさりと脱ぎ捨て、剣を抜いた。  流れる血を思わせる真紅《しんく》のオーラが、その刀身にうねっている。どうやらこの男の剣も魔法剣らしい。 「この剣の銘《めい》は、ジャスティスという」  レイグルはひっそりと口の端に笑みを浮かべた。 「笑わせるではないか。この世は力が全てで、正義などは存在しないというのに」 「ふん……それについちゃ賛成だな」 「わかっていて俺に剣を向けるのか。……それもよかろう。自分の力を過信した愚《おろ》か者の末路を教えてやる」 「その言葉、そっくりおまえに返してやるぜ」  レインは魔剣をだらりと構え、声に静かな闘志をこめた。 「故郷を出てから十年——この俺と剣を交え、倒れ伏さなかった奴は一人としていない!」  レインの宣言を最後に二人は話をやめ——  そして、最後の戦いが始まった。  レインとレイグルは、ゆっくりと半円を描くように歩を進めた。互いの周囲を回るように、ゆっくりと。  観客は大勢いるのにもかかわらず、辺りは静まり返っていて、しわぶき一つ聞こえない。ただ、二振りの魔剣から響く微《かす》かなオーラの音と、川の水音だけが全てだ。  ジャリ  レイグルが小石を踏む音が響いた。  と、その時——  レインはダンッと大地を蹴り、驚嘆《きょうたん》すべきスピードで間合いを詰め、魔剣を振り上げた。数メートルの距離をゼロにして攻撃動作に至るまでが、瞬《まばた》きより短い。  一陣の風のようにレイグルの前に出現したレインは、だがしっかり彼と目が合っていた。  その瞬間、確かにレイグルは笑った。 「くっ」  相手の上体へと叩きつけた斬撃《ざんげき》は、真紅《しんく》の魔剣があっさり受け止めていた。  バチバチバチッ  魔剣と魔剣が凄まじい勢いで激突し、互いの剣にチャージされた魔力同士が反発を起こす。派手な音を立てて火花が散った。 「大した反応速度だ」  無言で身体をさばき、手首を返すレイン。  青き魔剣の光芒《こうぼう》が生き物のように方向を変え、レイグルを再度襲う。  しかし、これもまたあっさりと受けられた。二度とも軽々と、剛力《ごうりき》による斬撃《ざんげき》を受けて見せたのである。  レインは構わず、なおも攻撃を続ける。  つばぜり合いの状態から力任せに相手を押しやり、敵の身体がよろけた途端、剣先が転じ、横殴りの一撃へと変化する。  が、青い残光は敵の影を切り裂いただけだった。  残像と共に、レイグルは寸前で宙《ちゅう》に飛び、くるりと後方回転して降り立っている。とんでもない身の軽さだ。  相手が着地すると同時にレインが間合いに突入、斬撃《ざんげき》を雨霰《あめあられ》と浴びせる。  そのことごとくを、レイグルは受け止め、弾き返してみせた。  ドラゴンスレイヤーたるレインは当然だが——  細身で膂力《りょりょく》などなさそうなのに、この黒衣の王は、スピードとパワーの乗った斬撃《ざんげき》に危なげなく応じている。  十合、二十合……青と赤の魔剣が入り交じり、激突ごとに魔力のオーラが反発を繰り返し、二人は激しく斬り結ぶ。ここ何年もの間、一瞬で勝負が決まることの多かったレインが、今や死力を尽くして戦っていた。  じわじわとレインの脳裏に疑問が生じる。  ドラゴンスレイヤーでもないこいつが、なんで俺と同等の、いや、俺以上の力を発揮できるんだ? 「戦いの最中に考え事か」  不吉な声音《せいおん》が囁《ささや》く。  あっと思った時には、レイグルがすすっとレインの死角に動いていた。  視界の隅に、霞《かす》むような速さの蹴り足が見える。  鞭《むち》のようにしなう蹴りが、脇腹にまともに叩き込まれる。回避する暇などなかった。 「——ぐっ」  とっさに自分から横に飛び、威力を弱めた。  なのに激痛が弾け、とんでもない衝撃が来た。優に五メートルは吹っ飛び、レインは地面に叩きつけられる。  それでもなお勢いが止まらず、ごろごろ転がっていた。  まともに食らっていたら、骨が粉砕され、内蔵が破裂していたかもしれない。  どっと脂汗《あぶらあせ》が浮いたが、構ってられない。 「レインっ」 「そんな、まさか——しょ、将軍!」  王女と、そしてレニの声だろう。目を向けている場合ではないが、二人とも声が震えている。驚愕《きょうがく》か、あるいは……不安で。  急いで跳ね起きようとして、レインはふらっとよろめいた。  ちっ。足にきた……か。 「みじめだな、レイン」  レイグルはなぜか、あえて追いすがってこなかった。魔剣を手に、レインを深淵《しんえん》のごとき黒い瞳で見つめていた。 「——! まだ勝負はついてないっ。余裕のつもりか、貴様っ」 「勝負なら最初からついている。いかに強くても、やはりおまえは人間にすぎない。この閉じられた狭き世界に住む、矮小《わいしょう》な人間だ。それこそがおまえの敗因《はいいん》と知るがいい」  レインは一瞬、目を見張り、 「なにを早くも解説に入ってやがるっ。それじゃなにか、おまえは人間じゃないとでも言うのか!」  大喝《だいかつ》と共にキッと顔を上げる。  衰えない闘志を胸に、レインはまっすぐに走る。  しかし——そのスピードは、なおも常人の域を超えているとは言え、最初よりはっきりと低下していた。  地を這《は》うような位置から魔剣を振り上げ、斜め上へと振り切る。レイグルが半歩下がってこれをよけ、外したレインがすすっと間合いを詰める。  鮮《あざ》やかに手首を返し、すかさず上から袈裟斬《けさぎ》りへと変化する魔剣の乱舞《らんぶ》を、レイグルは悠々《ゆうゆう》とかわした。  知られざる天才剣士——遙《はる》かな昔にそう呼ばれた、レインの上をゆく、完璧な見切りで。  激しく虚空《こくう》を薙《な》ぐ風切り音に重なるように、またレイグルの声。 「おまえにもわかっているはずだ。自分が俺に及ばないことを。俺の部下になれ。そうすれば、これまでの無礼は忘れてやる。——むっ」  ギィィィン——バチバチバチッ  レイグルが、幾度か目の斬撃《ざんげき》をがっちりと受けた。  真っ赤なオーラを放つ刀身の向こうから、じっとレインを見る。 「戦ってる最中にベラベラとよくしゃべる奴だな、おまえっ」  ギリギリと魔剣を握る腕に力を入れ、レインはレイグルを押し戻そうとした。しかしさっきと違い、相手は根が生えたように微動だにしない。腹立たしいことに、汗一つかいていなかった。筋力では、グエンすら相手にならないレインが押しまくっているのにだ。 「……俺の忍耐にも限りがあるぞ、レイン。いい加減であきらめるがいい」 「それで、おまえの部下になれってか?」  レインは……懸命《けんめい》に、そして祈るようにこちらを見ている王女をチラリと窺《うかが》い、レイグルだけに聞こえる声で、一語一語はっきりと言った。 「今のあの子には俺が必要だ。ことによると、今の俺にもあの子が必要かもしれない。だがな、おまえは俺達にとって、全然必要じゃないなっ」  すっとレインは身体を沈めた。レイグルがわずかに前によろめいた隙《すき》に、その足下を片足で払う。 「——! ちっ」  レイグルは自ら率先《そっせん》して跳《と》び、片手をついて横向きにきれいに一回転して着地した。  ——いや、しようとした。  敵が着地する、まさにその瞬間めがけ、弾かれたようにレインが突進する。  この化け物が、わずかに体勢を崩す時があるとしたら、今しかない。  低い位置から伸び上がるように振られた魔剣が、半円を描いてレイグルを襲う。  青白い斬撃《ざんげき》が走る時、ぶんっと音がした。  初めてレイグルの表情が変わった。のけぞるように身体をかわしたが、かわしきれずに肩の辺りを浅く切り裂かれた。パッと鮮血が弾ける。 「もらった!」  不安定な体勢から、それでも見事に再度飛び退《の》いた相手に、レインは魔剣を振りかざして追撃をかける。  これまでで一番速く、疾走《しっそう》する長身が綺麗な残像を生む。  だが——瞬《またた》くほどの差で、レイグルが体勢を回復してしまう。 「甘いぞ、レインっ」  ブンッ  見守るレニ達にまで、微《かす》かな剣風が届いた。  凄まじい勢いで跳ね上がった真紅《しんく》の刀身が、レインの魔剣を豪快に弾き返し、さしものレインがややよろめく。  すかさずジャスティスが狙いを転じ、がら空きになったレインの胴をざっくりと真横に薙《な》ぐ。今度|鮮血《せんけつ》を噴《ふ》き上げるのはレインの方だった。 『いやあああああああっ!』  自分が斬撃《ざんげき》を浴びたかのような、王女の叫び声が聞こえた。  レインは脇腹を赤く染め、血をしぶかせたまま、ゴロゴロと大地を二転三転して間合いを取った。すぐに立とうとしたが……立てない。ガクッと膝をつく。 「くそっ」  なんとかして立とうともがき、ふと王女に目をやった。シェルファはまっすぐこちらに駆け寄ろうとして、泡を食ったレニに羽交《はが》い締《じ》めにされていた。  それを見ると、なぜかちゃんと立てた。 「将軍!」  セノアが、そして他の部下達が、レインに加勢するつもりか一斉に駆け寄ってくる。だが、途中で見えない壁にぶつかりでもしたように、それぞれが身体を弾かれていた。大方、これもレイグルの仕業《しわざ》だろう。 「……俺に怪我《けが》を負《お》わせたのは見事だった。どうだ、レイン? 気は変わらないか? 変わらなければ、ここで死ぬことになるが」  悠然《ゆうぜん》と歩み寄る、レイグル。 「——強くなるんだ、俺は」  乾ききった唇を湿らせ、大きく頭を振ってから、レインは呟《つぶや》いた。 「……誰よりも強く……この世のどんな存在よりも強く……それだけが俺の望みだ」 「なんだと? 恐怖にかられて正気を失いでもしたか」  いぶかしそうにレイグルは眉をひそめた。  レインは、ただニッと笑った。 「あいにく、俺はこの世に怖い物なんかなにもないね。さあ……決着をつけるとしよう」 「おまえも愚《おろ》か者にすぎなかったようだな。出血がひどくて死にかけているのに、なにが決着だ。そんなに死にたくば、死ぬがいい」  冷え切った声で宣言した刹那《せつな》、レイグルはレインの眼前に飛び込んできた。風切り音がしており、銀髪が背後になびいている。  真紅《しんく》の一撃が、唸《うな》る剣風と共に首筋に迫る。  だが、その瞬間、時間が停止したかのように見えた。  二人の動きがぴたっと静止した—— 「……ば……かな」  あのレイグルが、初めて呻《うめ》く。  声から余裕が消えている。  常に落ち着き払っていた黒い瞳が、驚きに見開かれていた。  真っ赤な刀身は首を薙《な》ぐ前に、レインの手によって止められていた。レインの——左手の五本の指が、魔剣の剣腹《けんぷく》をピタリと押さえて微動だにさせなかった。……少しだけ、掌《てのひら》に剣が食い込んでいたりするが。  そして、右手に持った傾国《けいこく》の剣は、レイグルの胸を深々と貫いていた。剣先が完全に背中に抜けている。致命傷のはずだ。 「片手で——だと!」 「ふふん。天才を甘く見るなってこった!」  だくだくと手と脇腹から血を流しているくせに、レインはエラそうに笑った。  ……ちょっと失敗したが、ちゃんと指の腹で止めることが出来たからまあいいだろう。 「この必殺技は、失敗すると指がなくなるからあまり使いたくなかったんだけどな。どうだ、おそれいったか、おい!」  苦し紛《まぎ》れにたった今試した技だとはおくびにも出さず、言下《げんか》に魔剣を抜く。レイグルの胸から派手に血が飛んだ。 「なにっ」  今度はレインが驚く番だった。  倒れるかと思いきや、レイグルは自らの剣を放棄《ほうき》して走ったのである。信じられない生命力だ。  そして、彼の行き着く先は—— 「姫様っ」  追いかける暇もなかった。レイグルは慌《あわ》てて双刀を抜こうとしたレニを簡単に蹴倒し、シェルファ王女を捕まえた。 「——! は、放してくださいっ」  もがく王女を押さえつけ、レイグルは壮絶な笑顔を向けてきた。 「最後は俺の勝ちだな、レイン」 「貴様っ、汚いぞっ」  レインの罵倒《ばとう》を無視し、レイグルは片手を複雑な形に舞わせた。と、二人の姿が次第に薄れ、ついには完全に消えてしまった。 「ちくしょうっ」  レインはレイグルの残した魔剣を、地面に叩きつけた。 「クリス、いくぞっ」  よろけながらクリスに飛び乗り、レインは駆け出そうとした。 「将軍! どこへ行くつもりです!」  青い顔で走り寄ってきたレニが訊《き》く。責任を感じているようだ。 「わかりきったことを訊《き》くなっ。当然、ザーマインだっ。クリスなら、全速力で半日あれば着く!」 「ま、まさか。それより、そんな怪我《けが》で無茶ですよ……いくら将軍でも」 「そ、そうよ……じゃない、そうですよ! ここは作戦を練《ね》ってからにしないと」 「この見習いの言うとおりです! 将軍、まずは怪我《けが》の手当を優先してください!」  レニに続き、ユーリとセノアが懸命《けんめい》な表情で止めた。 「なんてことないさ、こんなもん。——おい、どうしたクリス?」  相棒は少しも動こうとしなかった。  だめっ、というように首を振っている。 「こら、クリス」  業《ごう》を煮《に》やしたレインがクリスをせっつこうとした、その時。  レインの頭上に、ふいに閃光《せんこう》が弾けた。  あまりの眩《まぶ》しさに、その場の全員が目を閉じる。 「な、なんだって……おわっ」 「レイン!」  いきなり上から降ってきた「なにか」にしがみつかれ、レインはクリスから転げ落ちた。だが、とっさに「それ」の正体に気付き、空中で身体をひねって自分が下になる。 「ぐっ」  傷が傷なので(普通なら死んでいる)、めっぽう痛かった。絶対に半分以上は血を失ったに違いないと思う。 「たたた〜——って、チビっ!?」 「——! レインっ」  シェルファは、安堵感《あんどかん》のあまりかパッと笑顔を弾けさせたものの——  レインの傷を見て、たちまち白磁《はくじ》の頬から血の気が引いた。 「し、死んじゃいやですっ」  そんなことしても無駄だろうに、レインの傷口に手を添える。  自分が血で汚れるのも厭《いと》わなかった。 「いや、それよりおまえ、どうやって——あ」  まさに、今更である。  やっとレインは、自分がシェルファに贈ったペンダントのことを思い出した。今の今まで、完全に忘れていたのだ。 「……わ、我ながらうかつだった……な」  深い安堵感《あんどかん》に包まれ、レインは誰に遠慮することなく失神した。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_313.jpg)入る]  エピローグ 雨の日に生まれたレイン  静まりかえった庭園の中に、超|音痴《おんち》な歌が響き渡る。「耳が腐《くさ》るから、その歌をやめろ!」と文句が出そうな声だが、今は辺りに人の気配もなく、そういう気遣《きづか》いは全くない。  池の畔《ほとり》——そこの大きなジュラの木にもたれて座っていたレインは、そんなわけで実に気持ちよく歌っていた。……もっとも側《そば》に誰かいたとしても、気兼ねをするようなレインではない。  優に十曲は歌ってから、やっと満足した。  会心の笑みを浮かべる。 「今日は調子いいな……聞き手が一人もいないのが残念だが」  今日は戦勝記念の舞踏会《ぶとうかい》がある日で、主だった者は全員が城の大広間に集まっている。このガルフォート城の裏手にくすぶっているような者は、レインぐらいのものだ。  そう、実際十日前の戦いは、レイグルとガノアを取り逃がしたことを除けば、ほぼ完勝といっていい結果で、祝う価値は十分にある。  悪運強く逃げおおせたガノアも、そのうちにぶった斬って犬の餌《えさ》にしてやればいいだけのことだ。……ただ、レイグル王はそう簡単にいかないだろうが。  あの時、レインは確かにレイグルの心臓を貫いた。出血多量で頭がぼやけていたからそう不思議に思わなかったが、あそこでレイグルが動けるはずはないのだ。  そんな真似が出来たということは……  簡単な消去法だ。人間に不可能なことを成せるのは人間ではない。  人の姿を持ちながら、あれだけの力を持つ男——そんな条件に当てはまる種族が、遥《はる》か昔に、確かにいた。つまりあいつは—— 「……絶滅したって話だったのになあ。世の中、なにがあるかわからんよな」  ため息を一つ吐《つ》き、また歌いだそうとしたレインは、ふと、今やお馴染《なじ》みになった気配(プレッシャー付き)を感じ、花が咲き乱れる庭園の方を見た。  案の定、庭園の中に刻まれた小道を通り、シェルファ王女が姿を見せた。  今日の彼女は舞踏会《ぶとうかい》用に仕立てた純白のドレス姿で、輝く美貌《びぼう》にさらに磨きがかかっていた。丈の長いスカートがややレインの好みに合わないものの、他は完璧である。  細いウエストから淡い胸の膨らみまで、身体の線がはっきりわかるところは特によい。 「立ってるだけで金が取れそうだ。末恐ろしい奴だな……」  レインは埒《らち》もないセリフを呟《つぶや》いた。 「はい?」 「いや、なんでもない。それよりチビ、おまえは舞踏会《ぶとうかい》の主役だろう? こんなとこでさぼってていいのか」 「レインがいない舞踏会《ぶとうかい》なんて、つまらないんですもの。……ここにいると思いました。見つかってよかった」  シェルファはレインの横に座り、その肩に頭を乗せた。……そおっと、遠慮がちに。  ——治癒《ちゆ》魔法を使える魔法使いの手柄で、レインがやっと目覚めた時、シェルファは充血した目で、レインが寝かされたベッドについていたものである。  それから今日まで、ずっとレインの側《そば》を離れない。どこへ行くにもついてくるのだ。用を足すときまでついてこようとするので、さすがにまいったくらいだ。  この俺が死ぬかと思って、よっぽど怖かったんだろうと思う。まあ、今だけのことだろうが。 「レイン、怪我《けが》の具合は」  シェルファはそっとレインの脇腹に手を触れてきた。 「……おまえ、それを訊《き》くのは千回目くらいだぜ? 平気だって。もうばっちり完治した。元々、ほっといたって直ったんだ。俺は不死身さ」 「ほっとしました。でも、わたくしが容態《ようだい》を訊《き》いたのはまだ二十回目くらいだと思います」  あくまでも真面目な若い主君に、レインは笑いの衝動が込み上げた。しかし、変に気にされるのも困るので、無理にこらえる。代わりにふと思いついたことを尋ねた。 「そう言えばチビ。おまえ、なにか俺に話があるとか言ってなかったか」 「いえ……お話ではなくて、言いたかったことがあるんです。……もうレインはとうに気付いているでしょうけれど、それでもきちんと言っておきたかったんです……」  とほんのりと赤みが差した顔を俯《うつぶ》せるシェルファ。だが、それっきり口をつぐんだままで、言い出しかねているようだ。 「……それじゃ、先に俺から話すか。最初に会った時、途中で話すのをやめたからなあ。……チビ、おまえに昔話をしてやろう。辺境に住んでいた、ある少年の話だ」  顔を上げたシェルファに優しく微笑んでやってから、レインは淡々と語り始めた。  このミュールゲニア大陸の北の果てに、ノーグっていう小さな村があるんだ。  ほんとにシケた村でな。ま、農民と木こりが住人のほとんどでね。  ただ、この話に出てくる少年の家だけはちょっと変わっていて、親父が腕利《うでき》きの傭兵《ようへい》だった。だけど、その少年はどちらかというと本を読む方が好きでね。親父の仕事には全然興味がなかったんだ。その代わり、そこそこ学があったが、そんな村で学があったってな。いや、それはまあいい。  とにかく、そんな少年にも好きな女の子ができた。村からちょっと離れた森に、ばあさんと二人でフィーネって女の子が越してきたんだ。栗色の長い髪をした、結構かわいい子だったな。少年が十三歳の時のことだ。  え? ああ、フィーネも同じ歳だった。  それで馬鹿な話だが、少年はその子に一目惚《ひとめぼ》れした。そりゃもう、彼女の顔を一日でも見なきゃ、いてもたってもいられない有様《ありさま》でね。親父にも散々からかわれたよ、うん。  フィーネは最初、すげー迷惑そうだった。て言うか、多分怖かったんだろうな。あまり人付き合いのいい子じゃなかったし。早い話が内気で。  だけど、しばらくして、とうとうその少年の熱意は報《むく》われた。ロクに話もしてくれなかったフィーネはしょっちゅう笑ってくれるようになったし、もっと時間が経《た》つとすっかり打ち解けて、しまいには二人で一日中べったりだった。  笑っちゃうことに、まだ二人ともほんのガキだったのに、将来は一緒になろう、って約束してたんだぜ。  ……でも、そんな夢みたいな日々は長く続かなかった。  フィーネが十四歳の誕生日を迎えた日のことだ……少年はその日、フィーネの家に招待されていた。もちろん、喜んで飛んでいったさ。自分の恋人の誕生日だし。  昼過ぎくらいからずっと楽しく過ごしてたんだが、その時は冬でな。運悪く、しばらくすると吹雪いてきた。で、どうにも帰れなくなって、少年はその日はフィーネの家にやっかいになることにした。彼女が住む小屋は、村から外れた森の中にあったんでしょうがなかったんだ。少年の両親は意外と話せるほうだったし、少年自身も大喜びでそうしたさ。  だけど……本当に、どうしようもなく不運なことが世の中にはあるよな。その日、もっと南の大きな町から逃げてきた盗賊の一味が、手配書に追い立てられるようにして、たまたまその森に逃げ込んでいたんだ。  その夜、少年はばあさんの悲鳴で叩き起こされた。飛び起きて隣の部屋へ駆け込んだ時、既にばあさんは殺されていた。床に俯《うつぶ》せになっていて、もう辺りは血の海だった……フィーネは泣きながらそのばあさんにしがみついていた——な。  そいつらは三人いた。少年はその内の一人に向かっていったけど、元々腕力には無縁でな。ガキだったし。……あっという間に殴り倒された。  その三人は、げらげら笑いながら小屋の中をあちこちひっくり返しだしたよ。だけど、フィーネの家は貧乏でさ、金目の物なんかどこを探してもあるわけないんだ。いつもギリギリで生活してたんだから。あ、あいつら、なんであんな貧しい家を狙うかな……  そのうち……そのうち、奴らは怒りだした。 「ロクに金目のもんがねえぞっ」て。多分、酒で頭がとろけてたんだろう。いきなりナイフを抜いたんだ。それも、三人共。  ……少年は殴られてズタボロだったけど、それでもなんとかしようとはした。フィーネが止めるのを振り切って、また向かっていって……今度は腹を刺された。結局、ばあさんの隣で血まみれで転がることになっちまった。  それでも、それでもその少年はフィーネに比べればずっと幸運だった。フィーネは泣きじゃくりながら少年のところに駆け寄ろうとして……かえって男達を興奮させちまった。  動けない少年の目の前で、フィーネは盗賊共に殺された。三人がかりで切り刻まれるようにして……。その時、フィーネは何度も何度も叫んでたよ。助けを呼ぶ悲鳴じゃない、「逃げてっ、逃げて!」てな……  フィーネが死んで、次は少年の番だって時、その少年の親父が扉を蹴破《けやぶ》って入ってきた。運がいいのやら悪いのやら……手配書は、その頃になって村にも届いてたんだ。あまりに遅すぎたけどな……  ——ここから話すことはあまりないな。  少年がまともに口をきけるようになるまで、丸々一ヶ月かかった。それに、表面上は元に戻ったように見えても、昔の読書好きの少年にはもう戻れなかった。よく言えば生まれ変わったんだな。  親父に頼んで狂ったように剣技を覚えた少年は、十五歳になったある日、ぷいっと村を出た。……もっともっと力を手に入れるために。あんな思いは、もう二度とごめんだから。  強く、誰よりも、この世のどんな存在よりも強く! それだけが少年の望みだったんだ。  だけど——  と、レインは我ながら落ち着いた声で言った。  胸にしがみついて震え、そのくせレインから目を離さずにいるシェルファの頭を、優しく撫《な》でてやる。 「もちろん、ほんとはそいつにだってわかってる。どんなに強くなっても、もうフィーネは生き返らない。自分のやっていることは全くの無駄なんだってな」  話すうちに感情が剥《む》き出《だ》しになり、レインの声が震えを帯びた。 「だけど、どうにも気のすまないことってあるだろう? どうしても忘れられなくて、じっとしていられないことだって。だから!」 「——レインっ」  シェルファが、哀しみを露《あら》わに、激しくレインに抱きつく。  力一杯しがみつき、しきりにレインの背中を撫《な》でている。  レイグルにやられた時の疵痕《きずあと》を、手でさすっていた時のように……一生懸命《いっしょうけんめい》に。  レインは苦笑し、抱きつく彼女をそのままに、そっと草地に寝そべった。  晴れ渡った蒼天《そうてん》を見上げ、呟《つぶや》く。 「馬鹿だな……ただの適当な昔話だろ? だいたい——」  とシェルファの顔を上向け、 「おまえまで泣くことないじゃないか」 「でも、でも……」  泣き濡れた大きな瞳で、シェルファはレインをじっと見つめた。 「レインだって泣いています」 「おいおい、そんな馬鹿な——」  驚いて自分の頬に手をやる。目の前に広げた掌《てのひら》は、確かに濡れていた。 「こりゃまいったな……泣くのはあの日以来だぜ……」  レインはそっと呟《つぶや》いた。  寝転んで空を見上げながら、シェルファを黙って抱き締めてやっていた。何十分もそのままでいると、さすがにシェルファも落ち着いた。まだ鼻を、かわいらしくグスグスやってはいたが。  起きあがって座り直してから、もう大丈夫だろうと思い、レインは訊《き》いてみた。 「で、おまえの方の話って?」 「……あの」 「うん?」  なぜかシェルファは、さっきよりもさらに言いにくそうにしていた。そわそわしていて、レインの視線に気付くと、また一段と焦った表情になる。  挙《あ》げ句《く》、いきなり話を変えた。 「レ、レインって……変わった名前ですよね。なにか意味があるのですか」 「意味——つうか、まあ理由はあるけど、しょうもない理由だぜ? 訊《き》きたいか?」  いえ、別に。——という返事を期待していたのに、元気一杯の声が返ってきた。 「もちろんです。とっても聞きたいです!」 「あ……そう。まあ、おまえになら教えてやってもいいんだが……二人だけの秘密だぜ?」 「はい、約束します」 「じゃ、教えてやるか。……俺が生まれた日はさ、記録的な豪雨だったんだ。で、俺の不良親父が実にてきとーな奴でな……ていうか、単なる酒飲みの女好き馬鹿っていうか、穀潰《ごくつぶ》しっていうか」  わかるだろ、なあ? という意味の目配《めくば》せをシェルファに送ったが、彼女はわくわくした顔をぐっと寄せてきて、 「はいっ。それで!」  クソ親父めえっ。  あんたが適当なことするから、息子の俺がいらん恥をかくじゃないかっ。  遙《はる》か彼方《かなた》にいるであろう父親に、レインはあらん限りの思いで呪った。  起きあがり、なるべくさらっと告げる。 「いや、だから——それだけ。記録的な雨が降ったから、レインって名前にしたんだと」 「——えっ?」  シェルファはすぐには理解できなかったらしく、瞳を瞬く。  やがてその美貌《びぼう》に、なんともいえない複雑な表情を浮かべた。  仕方なくレインは言ってやった。 「……我慢しないで笑っていいぞ? 俺は気にしないから」  許可してやると、シェルファは微《かす》かだが声を上げて笑った。邪気《じゃき》のない澄《す》んだ笑い声は、聞いていて気持ちよかった。かつて、名前の由来について笑った奴はボコボコにしてやったものだが、この子に対しては腹も立たない。  それどころかレインは、シェルファの細腰《ほそごし》を引き寄せ、自分でも思ってもみなかったことを口にした。 「なあ、チビ。前に、一緒にいてほしいって言ったよな……」 「は、はい、言いました。その気持ちはずっと変わりません」  まだほのかな笑みを浮かべてシェルファ。 「……どうせ俺には無限に時間があるからな。決めたぜ。おまえが生きている限り、ずっとついててやるよ」  シェルファが小さく声を上げた。  再び、レインに体当たりするように抱きついてきた。  その勢いで、二人はまた倒れてしまう。 「本当ですかっ。約束してくれますかっ」 「約束するさ。ザーマインの脅威《きょうい》だってまだ去ったわけじゃないしな。俺が必要だろ?」 「レイン……」  シェルファは全身を震わせてレインの胸に顔を埋めていたが、やがてなにか決心したように顔を上げた。 「今なら言えそうです。レイン、わたくしはあなたを……」  寄《よ》り添《そ》う二人を祝福するかのように、空は青く晴れ渡り、雲一つなかった。しかも、もうすぐ冬だというのに、今日はさほど寒くもない。  それどころか、レインは腕の中のシェルファのお陰で、とても温かかった。  シェルファはこの国の王族であり、普通に生き続ければその寿命は数百年に及んだりするのだが、レインがその事実を思い出すのはずっと後のことである。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_327.jpg)入る]  特別書き下ろし編   友誼《ゆうぎ》の始まり——ルナンにて——  砦《とりで》の周りは、敵兵で満ちていた。  見張り用の櫓《やぐら》より周囲を見渡し、ラルファスは小さくため息を吐《つ》く。  こちらの数倍はいそうな敵軍が、びっしりと取り囲んでいる。  彼らの放射する濃密な殺気が、陽炎《かげろう》のように立ち上っている気さえした。  この分では、自力脱出は難しそうだ。 「……大将、味方の救援《きゅうえん》、遅いっスね〜」  そばに控えた巨漢の副官、グエンがのんびりと言った。  内心では焦っているのかもしれないが、その山賊《さんぞく》のような髭《ひげ》もじゃの顔には、いささかの動揺も見られない。  ただ、巨眼に怒りの炎が見えるのは仕方ないだろう。  ……ここは敵国ルナンの領内であり、その国境付近に位置する、小さな砦《とりで》である。  ハザム砦《とりで》という名前があり、すぐ脇に街道も通っている。  だが、ラルファス達はここを、単に「砦《とりで》」とだけ呼んでいた。  上将軍《じょうしょうぐん》ラルファスの部隊千|有余《ゆうよ》は、数日前よりここで籠城《ろうじょう》状態にある。  攻め入る時は一緒だった王と二人の上将軍《じょうしょうぐん》達は、とうにサンクワール国内に撤退してしまい、殿軍《でんぐん》を引き受けたラルファスの部隊のみがまだ残留しているのだ。  進軍時に占領した砦《とりで》まではなんとか退《ひ》いたが、その辺りで敵軍に捕捉《ほそく》され、動けなくなった。  要は逃げ遅れ、やむなく砦《とりで》で救援を待つことにしたのである。  だが、この判断は誤りだったかもしれない、とラルファスは思う。  サンクワールとの国境は指呼《しこ》のうちなのに、待てど暮らせど援軍《えんぐん》は現れず、代わりにルナン兵ばかりが続々と増強されていく。  砦《とりで》に立てられた獅子《しし》の旗印を見た敵兵達は、今こそ積年《せきねん》の恨みを晴らす時とばかり、二重にも三重にも砦《とりで》を囲んでいる。夜は夜とて、かがり火を盛んに燃やし、旺盛《おうせい》な士気を誇示《こじ》していた。  この分だと、ここが落ちるのもそう遠くないだろう。  兵力差がありすぎるし、それに元々、この砦《とりで》は敵の所有だったのである。つまり、攻略ポイントもよく知られているわけだ。  だからこそ、向こうも張り切って囲んでいるのである。時間さえかければ、落とせると確信しているのだろう。  しかし無論、ラルファスもまた、そのような苦しい内心は一切見せない。  当然のようにグエンに応じる。 「うむ。まあ、ある程度はやむを得まい。ここは敵地なのだから、救援には慎重にならざるを得ないさ。焦らずに待とう」  見張りの兵士に聞こえるように述べ、歩き出す。  主人の目配《めくば》せを受け、グエンが後に続く。  途中、ナイゼルも合流し、ラルファス達は砦《とりで》内の広間へ向った。  長机を二つ並べた上に、この地域の詳細な絵地図が置かれている。  その地図を睨《にら》みつつ、呟《つぶや》く。 「……こうして眺めると、国境までは本当にわずかだな」  髭《ひげ》もじゃのグエンが肩をすくめる。 「まったくでさ。馬を飛ばせば、一時間もありゃ国境ですぜ。なのに、なんでさっさと援軍《えんぐん》を寄越《よこ》さねーんだ、陛下は」  最後は愚痴《ぐち》である。  と、騎士とは思えないほど少年風の顔立ちをしたナイゼルが、ポツンと付け加えた。 「砦《とりで》の防御力や、食料の備蓄《びちく》が少ないことも問題ですが。最大の問題は、飲料水がほとんど尽きかけていることでありましょう」 「うむ。まさか、水の補給を外に頼っていたとは思わなかったな」  そっと息を吐くラルファス。  そう、元ルナン側の砦《とりで》だったここは、水は外の井戸から汲《く》み上げていたようなのだ。  この砦《とりで》が築《きず》かれたのは、サンクワール進撃のための部隊が一時的に立ち寄ったり、あるいは国境からの侵入者を監視するためらしい。  長期に渡る籠城《ろうじょう》など、最初から考慮《こうりょ》に入れられてないわけだ。それに、ラルファスの部隊の千を越える数は、砦《とりで》の規模からすれば大人数すぎる。  お陰で、備蓄してあった飲料水の樽《たる》は、日に日に減るばかりだった。季節はまだほんの秋口、残暑も厳しく、水なしでは兵達が干上《ひあ》がってしまうだろう。  手書きの地図にじっと眼を落としていたラルファスにも、この件に関しての名案などはない。 「……とにかく、道は二つしかない」  沈思《ちんし》の後、結論を述べた。 「一つはこのまま砦《とりで》に籠《こ》もり、援軍《えんぐん》を待つこと。二つめは、渇《かわ》き死ぬ前に砦《とりで》から打って出ることだ」 「二つめになりそうですなー、どうやら」  すかさずグエンが応じる。  もちろん、ラルファスとナイゼルにも、とうにわかっていることだ。  今の段階で援軍《えんぐん》が来ないということは、王はこちらを見捨てる気なのだろう。  なぜなら、国境近くには他の上将軍《じょうしょうぐん》達の部隊も常駐しており、来援《らいえん》する気なら、さほど時間がかかるはずがないからだ。  ルナンの防御が厚く、今となっては援軍《えんぐん》は不可能と見たか、それとも——  ある種の予感を無理に押し込め、ラルファスは口ではこう言った。 「……今は、もう少し待とう。陛下が援軍《えんぐん》を送らないと決まったものでもない」  副官二人が、黙したまま一礼する。  どのような不満があろうと、二人とも常に、最後の決断はラルファスに預けるのだった。  ただ、グエンがぼやくようにこう言った。 「あ〜、こうなるのがわかってたら、殿軍《でんぐん》なんざ拒否するんでしたなー。戦《いくさ》ってのは、ほんっとに先が読めんですわ」 「先が読めない——か。いや、そうでもなかったな、今回は」  ラルファスは自嘲気味《じちょうぎみ》に笑う。  二人の視線にも気付かず、首を振る。  今回に限っては、未来は不透明ではなかった。  少なくともたった一人だけは、今日のこの事態を予見していたのだ。  冷徹《れいてつ》なまでの正確さで……  レインという男について、ラルファスは必要以上のことを知っていたわけではない。  これまでは、比較的|疎遠《そえん》だった。  ルナン戦において、ずば抜けた戦績《せんせき》を挙げていたこと。出撃すれば、彼の部隊は必ず成果を見せていたこと。どうやらそれなりに名前の知れた戦士で、サンクワールに来る前から「知られざる天才」などと呼ばれていたこと——などなど。  要するに、全て後から知った内容である。  五人隊長からいきなり百人隊長——そして、意外といえば意外な、上将軍《じょうしょうぐん》への大|抜擢《ばってき》。  巨大な戦果《せんか》を挙げてきたとはいえ、少々信じがたい任官である。……とにかく、ダグラス王の性格を思えば。  ただラルファス自身は、他の五人の上将軍《じょうしょうぐん》達のように、彼をことさらに嫌ってはいなかった。  その代わり、警戒はしている。  あの、どこまでも挑戦的な眼をした黒ずくめの戦士は、決して我が国の味方をしているわけではない……なんとなく、そう思っていたからだ。  彼の卓越《たくえつ》した武力が味方の時はいい。  しかし、もしもなにかの弾みで、彼が敵に回ったら? 簡単に言えば、寝返ったらどうするのか? そのような小さな危惧《きぐ》を、ラルファスは押さえられなかったのである。  ところが——  ダグラス王の御代《みよ》になり、もはや数度目を数えるルナンへの遠征《えんせい》が決まった日である。  つつがなく軍議《ぐんぎ》が終わり、部屋へ戻ろうとしたラルファスの前に、歩廊《ほろう》の角から現れた誰かが声をかけた。 「……さっきは、なんで俺をかばった?」  ラルファスは思わず、さっと腰の剣に手をかけてしまった。  話しかけられる時まで、彼の気配が全く読めなかったからだ。 「……レイン殿か。暗闇からいきなり出てくるのは感心しないな」  その詰問《きつもん》に対しては肩をすくめたのみで、レインはまた、同じ質問を繰り返す。 「俺が陛下にどやされるのは、いつものことだ。なんで不興《ふきょう》を買ってまで止めた?」 「……そうなのか? いや、貴公が上将軍《じょうしょうぐん》として軍議《ぐんぎ》に臨《のぞ》むのは初めてなので、知らなかったな、これまでもどやされていたのは」  穏やかに微笑む。  レインは、ひどく複雑な顔でラルファスを見返し——。次に、こちらの心底を見抜くような鋭い目を向けてきた。  あえて気にせず、続ける。 「とにかく、貴公の意見は貴重だったと思う。『敵に策があり、そのために作戦の変更をすべきだ』という指摘は、大いに理解できる。ただ、もう少し謙虚《けんきょ》な言い方をしたらよかったのではないか? そうすれば、陛下もあそこまではお腹立ちにならなかっただろう」 「いや、俺の話し方なんぞはどうでもいいが」  レインは軽く顎《あご》を撫《な》で、顔をしかめる。 「つまりあれか? おまえは俺の意見を認めて、陛下の癇癪《かんしゃく》を押さえたわけか。……普通の貴族は、俺の意見なんか聞き流すと思ってたが」 「軍議《ぐんぎ》の場に、貴族も平民もない」  ラルファスはきっぱりと言い切る。 「有益な進言を支持するのは、戦いに臨《のぞ》む騎士として当然のことだ」  レインは薄闇を通してじいっとラルファスの顔を見つめた。 「俺は今回の遠征《えんせい》からは外されたが……おまえがそう言うのなら、一つ意見——というか、忠告がある。余計なお節介として、聞く気はあるか?」 「聞こう。——ただ、廊下で話すことでもあるまい。私の部屋に来るといい」  で、場所を私室に移し、ラルファスは聞いた。レインの『意見』とやらを全部。  彼は、まるで己の掌《てのひら》を指すように、説明してのけた。 「今回の遠征《えんせい》で、ルナン側は緒戦《しょせん》ではわざと敗退し、自分達の王都へ向かって敗走するだろう。  しかし、それはおそらく、本当に敗れたせいじゃない。  戦いがどのような経過を辿《たど》ろうと、いかにこっちの遠征《えんせい》が成功したように見えようと、絶対に違う。  それは敵——つまり、サンクワール軍を自分の領地深くまで引きずり込み、そこから反転して攻撃するためだ。  敗走する途中、ルナン軍は密かに別働隊が進発、気付かれぬように我が軍の背後を塞《ふさ》ぐはず。その包囲網が完了した時点で、逃げていた敵も反転して逆襲《ぎゃくしゅう》に転じる……必ずだ」  目を見張って耳を傾けるラルファスに、レインはテーブルの向こうからニヤッと笑った。 「とまあ、ここまでは俺が放っている間諜《かんちょう》が掴《つか》んだ情報で、ここからが俺の推測だが」 「しばし待て! 間諜《かんちょう》からの情報なら、なぜそれを陛下にご報告しなかったのだ」  レインは、どっかりと椅子の背に身体を預けた。 「……これも、おまえが知らないことだがな。俺は以前、似たような報告を陛下にしたことがある。別の作戦でな。だけど、怒鳴りつけられた上に、こざかしい真似をするなと言われたぞ? それ以後、その手の調査活動は勝手にやることにしている。なにか文句でも?」  そう問い返されると、ラルファスとしても何も言えない。 「いや……続けてくれ」 「よし。では、俺の推測っつーか、予測を話そう。いいか、ラルファス。陛下は自分達が窮地《きゅうち》に陥《おちい》った時、軍議《ぐんぎ》を開いて必ずこう言うだろう。『誰か、殿軍《でんぐん》を務める者はおらんか?』とな。従軍する上将軍《じょうしょうぐん》の顔ぶれを見れば、そんな時に『なら私が!』なんて殊勝《しゅしょう》な発言するヤツは一人もいない。候補がいるとすれば、おまえくらいだ。だがな、いいかここが肝心《かんじん》だぞ」  ——その時、決して殿軍《でんぐん》を志願するな。万一指名されても、断固として拒否しろ。  口を開いたラルファスを目で押さえ、レインはさらに言う。 「ついでの忠告だが、出陣の折にも先陣は志願するな。出来れば、最後陣にいろ。敵の罠が見えていないうちは、先陣を志願する単純馬鹿には事欠かないから、これは問題ないはずだ」  他にも次々と『俺の予測』とやらを話す。  それは、追撃部隊に選ばれる敵の武将から、彼が取る戦法にまで及んでいた。まるで敵の陣中に、つい先程までいたような指摘の細かさ、正確さである。  ようやく話を終えたレインに、ラルファスはやっと訊《き》いた。 「先陣を志願するなというのは、いざ撤退《てったい》の時は、一番|殿軍《でんぐん》を押しつけられやすいからか?」 「そう。行くときが先頭なら、帰る時は最後尾になる理屈だ。まあ、隊列を変える時間があるなら問題ないが。俺の見る所、敵の罠に気付いてから、奴らの逆襲《ぎゃくしゅう》までは一気だぞ。下手すると、軍議《ぐんぎ》の時間もロクにないかもしれん」 「……そこまではわかる。しかし、殿軍《でんぐん》を志願すると、それほどまずいか? 陛下達が退却《たいきゃく》された後、体勢を立て直して来援《らいえん》することも有り得るだろう? なにも陛下でなくても、国境を守るギレスやサフィールなどの軍でもよい。コルデリオンやグレートアーク(両名の居城)からなら、来援《らいえん》も容易だ」 「来援《らいえん》はない!」  身も蓋《ふた》もなく、きっぱりとレイン。 「なぜなら、陛下が許可しないからだ。ギレスやサフィールは、陛下の怒りを買ってまでおまえを助ける義理はないしな。つまり、援軍《えんぐん》は絶対に来ない」  思わず沈黙したラルファスに、レインが静かに告げた。  いつもの不敵な表情ではなく、厳《おごそ》かな表情だった。 「——ラルファス・ジュリアード・サンクワール、おまえは高潔《こうけつ》な男だ。いかなる時にも己の信念を守り、臆《おく》せずに意見を述べ、それを貫き通す覚悟もある。打算抜きで国を憂《うれ》うおまえの発言は、いつも絶対に正しい。正しいからこそ、そうじゃない者からすれば、邪魔なんだよ。……それを忘れない方がいい」  レインが言葉を切った後、しばらく両名共になにも言わなかった。  その沈黙の帳《とばり》を振り払うように、レインがすっと席を立つ。  部屋を去る間際《まぎわ》、振り返った。 「多分おまえは、俺の助言を信じながらも、殿軍《でんぐん》を務めて敵に囲まれると思う。……おそらく、場所は国境近くの砦《とりで》かな? とにかく、その時はなるべく時間を稼《かせ》げ。俺もなんとかならないか、陛下をつついてみるしな」  この時、ラルファスは思わず笑ってしまった。  この男の予測は、恐ろしいまでに鋭く、そして真実を突いている気がする。  現に今、あらゆる可能性を考え、自分が殿軍《でんぐん》を務めるだろうと覚悟しかけていたのだ。  なぜなら、誰かが務めねばならぬ役目だから。  諫言《かんげん》が受け入れられぬのなら、せめて雄々《おお》しく戦いたいではないか。  笑みが消えない間に、ラルファスは背中を向けた相手に問う。 「そこまでして、どうして私を助けようとする?」  レインは再び振り向き、唇の端をちょっと吊り上げて笑った。  夢に出てきそうな、実にふてぶてしい笑いだった。 「よくぞ訊《き》いてくれた! おまえに恩を売っておけば、後々俺のためになる……そう考えたからだ。というわけで、もし助かったら、今宵《こよい》の忠告のことをばっちり思い出してくれよ。いいな?」 「わかった、生き残ったら必ず恩に着るさ」  大きく頷《うなず》き、ラルファスはレインを見送った。  扉が閉まった後、さらに笑みを深くする。 「私を利用するためだと? この……大嘘つきめ」  実にこの時を境《さかい》に、ラルファスはレインへの評価を大きく変えたといっていい。  彼が、本当はどのような男なのか……少しは理解できた気がしたのだ。 「大将?」 「……ラルファス様?」  部下達の声がして、ラルファスは記憶を探るのをやめた。 「いや、ちょっと出陣前のことを思い出していた」  レインの忠告に関して、余さず教えてやる。  グエンとナイゼルの顔に、ゆっくりと驚きが広がっていった。   ——☆——☆——☆——  ラルファスが砦《とりで》でレインのことを思い出していた時、当の本人は、上将軍《じょうしょうぐん》サフィールの居城、グレートアークに来ていた。  ギレスのコルデリオン城と並び、ここは国境付近の要所でもある。  ダグラス王は首尾良《しゅびよ》く撤退《てったい》を済ませ、今はこの城にて兵を休めていた。  謁見《えっけん》を申し込み、待たされること半日——。レインはようやく、王のいる部屋に通された。  彼は、元はサフィールの部屋であるそこに、どっかりと腰を落ち着けていた。  上でダンスでも出来そうなでっかい飴色《あめいろ》のテーブル越しに、エラそうにレインを見やる。  口|髭《ひげ》もきちんと手入れをしてあり、羽織《はお》ったマントも朱色の豪勢《ごうせい》な新品である。  つい数日前、命からがら逃げ帰ってきた王には見えない。 「——このような場所に、何用だ?」  うわっ、嫌なヤツが来た……あからさまにそんな顔をする。  レインはわざとらしく、深々と頭を下げた。 「これはこれは陛下、この度の無事なご帰還《きかん》、誠《まこと》に祝着《しゅうちゃく》の極《きわ》み」  恐ろしいまでにイヤミな挨拶《あいさつ》に、ダグラスの眉間に深々と皺《しわ》が寄る。  しかし、レインの顔はあくまでも生真面目《きまじめ》その物なので、文句も言いにくい。  結局、渋い顔で頷《うなず》いた。 「……うむ。これも我が祖先と、戦神ミゼルのご加護《かご》であろう」 「ほー。私はまた、最大の功労者はラルファスだと思ってましたが」  頭を上げ、レインはしれっと言う。  顔には、うっすらと笑みがあった。  王の両眼に雷光が走る。 「何が言いたいのだ、レイン」 「その前に、座ってもよろしいですかね。跪《ひざまず》いたり、突っ立ったりでは、話しにくいですし」  厚かましい言いように王の機嫌は益々悪化したが、とりあえず同席は許可した。 「……まあ、よかろう。ただし、わしは疲れておる。話は手短《てみじか》にな」 「では、率直《そっちょく》に申し上げましょう」  どっかとばかりに同じテーブルに着き、レインはまっすぐに王を見た。  不敵な笑みが消え去り、どこまでも澄《す》んだ黒瞳《くろめ》が、相手の目をしっかりと捉《とら》える。だらっと座っていた王が、思わず居住《いず》まいを正すほどの迫力があった。 「何故《なにゆえ》に、ラルファスに援軍《えんぐん》を出さないんです? この城とコルデリオンの兵力を足せば四千にはなり、さらに現在|退却《たいきゃく》してきた部隊も併《あわ》せれば、一万に届く数です。援軍《えんぐん》が不足しているとは思えません。時間が経《た》てば経《た》つほどに、敵はあいつが籠《こ》もる砦《とりで》の包囲を増強しますが?」 「貴様……そこまで状況を知って」  言いかけ、ダグラスは忌々《いまいま》しそうに言葉を切る。乗せられるのは不利だと悟《さと》ったのかもしれない。  代わりに、ぶすっと切り捨てた。 「おまえと違い、わしは戦《いくさ》全体の大局《たいきょく》を見て、判断せねばならん。我が軍は、敵の卑劣《ひれつ》な罠で痛手《いたで》を被《こうむ》った。これ以上傷口を広げるのは、得策とは言えん。もはや、敵は待ちかまえていようしな。援軍《えんぐん》を出すにしても、慎重に状況を見極《みきわ》めねばならんのだ」  そもそも、とダグラスは吐き捨てる。 「貴様がなぜ、ラルファスの心配などする? 確か以前は、貴族は嫌いだと申しておったぞ」 「まあ、俺のことなんかどうでもいいんですが。要するに、時間切れを待っていますか?」  レインの顔に、またしても不敵な笑みが戻った。臣下《しんか》の癖《くせ》にふてぶてしい笑いで王を見やり、さらっと続ける。 「ラルファスを見捨てるのは、あいつの諫言《かんげん》が、いよいようっとうしくなったからか——それとも、ご自分の玉座《ぎょくざ》を心配しているためかな。あいつ、臣下《しんか》にしては人望がありすぎますしね」  椅子を蹴倒《けたお》す勢いで、ついにダグラス王が立ち上がった。  壁に立て掛けた剣を引っ掴《つか》み、真っ赤な顔でレインの前へ来る。 「先日、上将軍《じょうしょうぐん》に引き立ててやったばかりのわしに、何という口の利《き》き方か!」  唾《つば》を飛ばす王に対し、レインの表情に変化はない。しぶとい笑みを消さないまま、ゆったりと主君を見上げる。  囁《ささや》く声は、あくまで静かだった。  ただし、いつの間にか右手が自らの腰の辺りに来ていたが。 「このまま斬るおつもりですか? 俺の経歴を調べ上げ、この国にスカウトしてくださったのは、陛下だったと思いますが……。今ここで殺せると、本気で信じてらっしゃる?」 「き……さま」  ダグラスが呻《うめ》く。  長剣にかかった手が、微《かす》かに震えた。 「泥沼のルナン戦では、今後も俺の力が必要……そう考えたのではありませんでしたか。ここで短気を起こすのは、陛下のご損では?」  ダグラスは刺殺《しさつ》できそうな視線でレインを見下ろしたが——  結局は元の席に戻った。 「確かに、わしはおまえの力を認めておる。数々の証拠も見た故《ゆえ》な。だがレインよ、忘れるな。おまえは『ルナンを五年以内に滅《ほろ》ぼす』と約束した。大抜擢《だいばってき》も、その約束あってのことだ。履行《りこう》出来なければ、今度こそただではすまさんぞ」 「微妙に違いますね」  即座に言い返すレイン。 「俺は『ルナンは五年以内に滅《ほろ》びる』という予測を述べたんです。似ているようで、全然違う。まあ、いいですけどね」  レインは席を立ち、血ぶくれしたようなダグラスを見下ろした。  退場の挨拶《あいさつ》のように告げる。 「どうやら、援軍《えんぐん》の要請《ようせい》は無駄なようで。……お邪魔でしょうし、私はこれで」  あっさりと踵《きびす》を返したレインの背中に、王は意地の悪い声を叩き付けた。 「待て、レイン! まさかとは思うが、ラルファスへの援軍《えんぐん》などは許さんぞ。自儘《じまま》な態度は慎《つつし》め!  軍勢を率《ひき》いて国境線を突破しようとすれば、敵と見なして攻撃する」  足を止めていたレインは、しかし振り向かないままドアを開いた。  主君に背中を向けたまま、 「お好きなように。しかし、うちの兵なら自分の城に置いたままですよ。ご心配なく、陛下」  嘲笑《あざわら》うような口調で返し、そのまま部屋を出てしまったのである。  レインが退室すると、ちょうどそこへ、一人の女性が現れた。  きりっとした顔立ちの金髪美女で、瞳を見れば純粋な貴族なのが明らかである。  年齢は、まず二十歳そこそこだろう。  彼女は、長い金髪を払うようにしてレインを見ると、やや驚いたように立ち止まった。  こんな所で平民が何を! みたいに思ったのかもしれない。 「……レイン殿とお見受けする。ここで、何をしておられる?」 「そりゃ、ついさっき陛下に同じセリフを言われたな。しかし——」  レインは、白いシルクの服を着た彼女を、つま先から頭のてっぺんまでじろじろ眺める。  服装自体は上等なのだが、華美《かび》を好まないのか、飾り気がない。 「貴族ってのは、礼儀を知らんらしい。まずは自分が名乗れよ。なにを訊《き》くにしても、とにかくそれが先だろ」  あからさまにむっとした顔の美女だが、割と素直に名乗った。 「……失礼した。私は、セノア・アメリア・エスターハートと言う。以後、お見知りおきいただきたい。それで、先程の質問には答えていただけるか?」 「まー、いいが。陛下に、『なぜラルファスに援軍《えんぐん》を出さない?』とねじ込みに来た」  意外なことに、これを聞いて美女——セノアの態度がやや軟化《なんか》した。  純血貴族の証《あかし》である、真っ青な瞳をきらきらさせ、何度も頷《うなず》く。エラく満足そうに。 「……なるほど。その言いようは無礼ではあるが、私も用件は同じだ」 「なら、今はやめとけ。めちゃくちゃ機嫌が悪くなったからな、陛下」  なぜ? と首を傾《かし》げたので、レインは事情を説明してやる。 「ふむ……」  セノアは生真面目《きまじめ》な顔で唇を噛《か》んだ。  数秒後、なにかを期待するように問う。 「それで、レイン殿はいかがなさるおつもりか。もちろん、陛下の命令を無視して、コートクレアス城から援軍《えんぐん》を送るのだろうな」 「いや、全然」  きっぱりと返すレイン。  だいたい、なにが『もちろん』なのか。 「距離を考えろ。そんなことしたって、時間的にもう間に合わん。それに、俺が陛下にどやされるだろうが」  金髪美女のセノアは、絶句した。  それはともかく、次にいきなり怒り出したのには、レインも驚いた。  素晴らしいスタイルを誇る長身をぶるぶる震わせ、熱いセリフを叩き付ける。 「なんという情けないことを仰《おお》せか! 朋輩《ほうはい》を助けに命がけで出陣かと思いきや——失望しましたぞっ」 「失望ってなんだよ。そもそもおまえ、なんで俺の名を知っている?」 「そ、そんなことはどうでもよろしい!」  なにやら慌《あわ》てふためき、頬を紅潮《こうちょう》させるセノア。  ぷりぷり怒ったまま、足早に去ってしまう。  なんだ……あれ?  レインはすらっとした後ろ姿を目で追い、しばらく首をひねっていた。   ——☆——☆——☆——  じりじりと救援《きゅうえん》を待ったまま、さらに数日が過ぎた。  もはや、これ以上待てない状況になりつつある。  飲料水がついに、残り一日分を切ったというのが一つ。  それと、いま一つ不利な状況が出来た。  命からがら戻ってきた、密偵《みってい》の報告を聞いたのである。  どうやら敵のさらなる増援《ぞうえん》が、この砦《とりで》に向かっているらしい。  その援軍《えんぐん》は二日以内にはここへ着くらしく、今でも数倍以上の兵力差があるのに、そうなると脱出は絶望的になる。  もはや、打って出るしかないのだ。  待っている場合ではない。 「時が来たな」  指揮所に使っている広間で、ラルファスは副官達を見やる。  二人とも、むしろ嬉しそうに破顔《はがん》した。 「うっす! もう、待ち続けるのはうんざりですぜっ」  グエンが足を踏《ふ》み鳴《な》らせば、珍しくナイゼルも同調する。 「……無益な待機が終わり、祝着《しゅうちゃく》でございます」  よし、ならば——  と言いかけたラルファスを遮《さえぎ》るように、ドアをノックする音。入室を許可すると、百人隊長の一人、バルドスが一礼して入ってきた。  随分《ずいぶん》、とまどった顔で。 「将軍、たった今、このような矢文が……」  くしゃくしゃの紙を渡す。  そこには、超下手くそな字で、こう書かれていた。 『そろそろ辛抱《しんぼう》が切れそうだと思うが、あと一時間だけ待つとハッピーかもな』  グエンが山賊《さんぞく》顔をしかめる。 「ハッピーかもなって……なんです、こりゃ。誰なんで?」  ラルファスは思わず笑った。  この、ある意味独特な字に、見覚えがあったからだ。 「よし、一時間待とう。打って出るにしても、どうせ準備にそれくらいはかかるさ」  正確に一時間後、ラルファスの部隊は南門を開き、人馬一体となって飛び出した。  怒声《どせい》を浴びせ、たちまち敵がわっとばかりに殺到してくる。  長槍《ながやり》を高々と掲げ、ラルファスは天に届けとばかりに叱咤《しった》する。 『全軍、突撃! 我らの意地を見せるのだ!!』  おおうっ!  雷鳴のような唱和《しょうわ》の声が満ち、一斉に騎馬部隊が動く。 「小癪《こしゃく》なっ。ここまで来て、誰があっさりと貴様らを帰すと」  最初に突っ込んできた相手に対し、ラルファスは大喝《だいかつ》した。 「戯《ざ》れ言は無用っ。せめて、槍《やり》で語られよ!」  言下《げんか》に、愛用の槍《やり》が唸《うな》りを上げた。  一撃目で敵の槍《やり》が飛ばされ、相手がぐらっと馬上で揺らぐ。  返す二撃目で、兜首《かぶとくび》が血しぶきを上げて飛ぶ。  勇ましく挑んできた某隊長は、なにも出来ずに落馬してしまう。  その上にサンクワール軍の騎士達がどかどか通り、たちまち死体も行方知れずとなった。  他にも隊長格のルナン騎士が何人か挑んできたが、皆、先の者と同様の敗退を遂《と》げた。違っていたのは、傷を受けた場所くらいである。  旋回《せんかい》するラルファスの槍《やり》が血風を呼び、幾度も返り血が飛ぶ。  白銀の鎧《よろい》が、たちまちにしてまだらに染まっていく。  戦士として名を轟《とどろ》かせるラルファスの奮戦《ふんせん》に、ルナン兵は当初、押され気味だった。  味方は勢いを得て益々|吠《ほ》え、敵はラルファスの腕を見て思わぬ後退を強《し》いられる。  敵の布陣に綻《ほころ》びが生じ、戦術眼《せんじゅつがん》に優れたラルファスは、すかさず指示を飛ばす。 「皆、私に続けーーっ」  布陣が僅《わず》かに崩れた箇所《かしょ》めがけ、しゃにむに分け入った。  故郷の方角は、言うまでもなく敵の陣容《じんよう》が最も厚かったが、ラルファスを先頭とする部隊は、錐《きり》のようにそこに穴を開けることに成功した。  あとは、敵の痛点をどんどん拡大し、突破するのみである。  ——しかし。  最初の驚きと恐怖から立ち直ると、老練《ろうれん》なルナンの騎士達はたちまち冷静さを取り戻した。  ルナン側の指揮官、太い眉を持ったアムルが、味方に檄を飛ばす。 「うろたえるな! 味方は敵の五倍を数えるのだ。敗北は有り得ない! サンクワールへの方角を塞《ふさ》げっ。全軍、そこに人数を集中しろ。さすれば、敵は必ず崩れるっ」  この指示が、戦《いくさ》の流れを大きく変えた。  予備隊も含め、南門に詰めていた全ての兵力が移動、サンクワールを背に半円陣を組む。  しかも、何重にも防御陣を重ねる。  ラルファス達を絶対に逃がさず、かつ包囲殲滅《ほういせんめつ》する意図《いと》の元に。  何しろ、相手の望みがはっきりわかっているので、策が立てやすい。  ルナン軍の移動と陣形を見て、サンクワール軍に絶望の呻《うめ》きが満ちた。 「むうっ」  相変わらず水車のように槍《やり》を振り回していたラルファスではあるが、敵は次から次へと来る。  元より、兵力差はお話にならない。  グエンもナイゼルも彼にぴったりついて戦っているものの、次第に疲れが見え始めてきている。  しかも、駄目押しが来た。  砦《とりで》の北門に布陣していた兵士達が、応援のためか砂塵《さじん》を巻き上げて駆け付けて来るのを見つけ、ラルファスもついに天を仰《あお》いだ。  ……もはや、これまでか。  そのままだと、本当にそうなっただろう。しかしである、ここでさらなる転機《てんき》が生じた。 『うわああっ!』  突然の喊声《かんせい》に、ラルファス達は思わず顔を見合わせた。  それはルナン軍側も同様で、アムルも『何事かっ』と顔を上げる。  天を揺るがすような今の喊声《かんせい》は、こことは逆方向——すなわち、砦《とりで》の北門の方から聞こえてきたのだ。  どうやらあちらの味方は動揺しているらしく、狼狽《ろうばい》の声や悲鳴がわんわん響いてくる。  それはそうだろう。 『どのような状況下であろうと、北から敵が来ることだけはない』  ルナン軍全員が、そう信じ切っていたのだ。  故に、向こうの布陣はごく薄い。 「伝令っ、誰か人を北門へ」  指示を出しかけたアムルの声が、いきなり怒声《どせい》に消された。  それは陣中の何カ所かで同時に聞こえた。 『大変だあっ。北から敵が、敵が現れたぞおっ』 『サンクワールの援軍《えんぐん》だ、援軍《えんぐん》が来たっ。物凄《ものすご》い大軍だっ』 『奴ら、王都への道を塞《ふさ》ごうとしている。俺達を逃がさない気だあっ』  他の場合なら、少なくともアムルは、ひどく怪しいと思ったろう。  指揮官の自分が把握《はあく》していない事実を、先に一兵卒《いっぺいそつ》が怒鳴っていることからして怪しい。  敵の出現した方角も怪しい。なぜ、南からではなく、北からなのか?  しかし、とにかく『敵の増援《ぞうえん》に注意せよ!』と厳命《げんめい》が来ていた時であり、さらには数日前より陣中に『レインがラルファスを救援に来る』という、まことしやかな噂が流れていた時でもある。  その噂にせよ、あちこちで喚《わめ》いている味方の警告の声にせよ、全てはレインが紛れ込ませた間諜《かんちょう》の仕業《しわざ》であり、彼の策の一環《いっかん》なのだが、アムルは信じてしまった。  何より、北門から聞こえるこの喊声《かんせい》は、敵の物であることは間違いない。 「て、敵が来たのかっ。指揮官は誰だっ」  あたかもアムルの問いかけに答えるように、突然、蒼天《そうてん》に雷が乱舞《らんぶ》した。  雲一つない青空に、いきなり無数の雷光が生まれ、陣中を襲ったのである。  ——なぜか、ルナン兵達だけを標的に。  バチバチバチッ  幾筋もの雷が兵士達を直撃し、浮き足立っていたルナン兵達へのトドメとなった。  混乱の坩堝《るつぼ》と化したルナン軍の真っ直中に、白馬に乗った戦士が躍り込む。  まるで、今の雷に呼ばれたように。 『聞け、ルナン兵共! おまえ達の首は、このレインがもらうっ。死にたいヤツからかかってこいっ』  威勢《いせい》のよい掛け声とともに、黒衣黒髪の男が疾風《しっぷう》のように陣中に飛び込む。 「れ、レイン……あいつが来たのか!」  呟《つぶや》くように言ったのに、レインはキッとこちらを見た。 「そこにいたか、アムルっ。よし、今日こそはそっ首をぶち落としてやるから、そこ動くなコラ!」  言下《げんか》に、怒濤《どとう》の勢いで突っ込んでくる黒影。  前を塞《ふさ》ぐ(というか逃げ遅れた)兵を紙細工の人形のように特大の剛槍《ごうそう》で吹っ飛ばし、あるいは突き崩す。なに食ったらこんな馬鹿力が出るのか、抗《あらが》える者は皆無《かいむ》である。  たちまちにして距離を詰めてくる。  たった一人の突撃なのに、誰も止められないのだ。  掲げた槍《やり》の穂先が、悪夢のようにぎらっと光った。 「ひ、退《ひ》け。退《ひ》けええっ」  勇将をもって知られるアムルは、この瞬間、ついに撤退を決意した——  ラルファスがレインと話せたのは、国境を越えた辺りである。  ジグレム川を目前にして、やっと追いついてきた彼と馬を並べることが出来た。  礼を述べた後、尋ねてみる。 「意表を突き、敵の王都の方角から軍を繰《く》り出《だ》したのは、見事だった。しかし彼らは——」  と、軍の後尾についてきた一団を見やる。  一応、鎧《よろい》姿だが、よく見ると間に合わせで用意したのがよくわかる。軍装が貧弱なのだ。 「どう見ても、我が軍の兵士ではあるまい?」 「……あれは『草』さ」 「草?」 「知らないか? 敵の民を懐柔《かいじゅう》して、密かに現王権への抵抗組織とする……それを草というんだが」 「いや、そういう戦法があるのは、知っているとも。しかし、草を組織するには、長い時間がかかるだろう」  レインはにやっと笑った。  いつもの不敵な顔で。 「おまえ、俺をイマイチなめてるな。時間は十分にあっただろ? 俺がこの国に来て、何年|経《た》つと思うんだ。非常時のことは、常に考えているさ——主に自分のために」  唸《うな》るラルファスを尻目に、レインは小さくため息を吐《つ》く。 「けど、せっかく組織していた草も、今回の策のお陰で、全てこちらに逃がしちまった。全部、ぱぁ〜だ。一からやり直しだな」  で、なんだか意味ありげに笑う。 「……というわけで、俺の渾身《こんしん》の救助に感謝しろよ。前に言ったろ、俺の恩着せ計画? いざという時は、しっかり俺の盾になってくれ」  レインのふざけた言いようには乗らず、ラルファスは鞍上《あんじょう》で姿勢を正した。  彼がなんと言おうと、命がけでやってくれたことはわかっているのだ。  手を伸ばし、友の手を掴《つか》む。 「わかっている」  嫌がるのを無理矢理に握りしめ、じっと黒瞳《くろめ》を覗き込んだ。 「今日のことは、生涯《しょうがい》忘れないとも」  レインはなんだか居心地の悪そうな顔で、そっぽを向いた。  二人が帰還した後——  王は、レインを罰することが出来なかった。なぜならダグラスは、『軍勢を率《ひき》いて国境を越えるのは許さん』と明言したのであり、今回の件は例外事項である。  ——という屁理屈《へりくつ》を、他の誰でもない、ラルファスその人が主張した。  ダグラス王には彼を助けに行かなかった後ろめたさもあり、かつラルファスの静かな碧眼《へきがん》に無言の圧力を感じ(それは気のせいなのだが)、頷《うなず》く他はなかった。  余談だが、例のセノアは、この一件を後で聞き、大いに後悔もし、身が震えるような感動も覚えたりしていた。  その後、彼女はレインの元へ走ることになるのだが……それはもう少し後のことである。 [#改ページ]  あとがき  ずっと、「小説を書く人」になりたかったのです。  小説を書き、それが本となって書店に並ぶ……子供の頃からそういうことに憧れていました。  ここで素直に『小説家になりたかった』と書かないのは、私にとってその場所は、あまりにも遠かったからです。  今も相変わらず、そんな気がしていますけど。  思い返せば、小学生の頃の私は本ばかり読んでいたようです。  友達が外でドッジボールや野球をしていた頃、私は電車に揺られて遠くの図書館通いをしていたくらいです。  たくさんの物語に触れ、わくわくどきどきするのが最大の楽しみでした。  本に埋もれているのが望みだったのです。  本さえ読んでいれば、幸せだったのです。しかしいつしか、自分も書く側に回りたい! などと分不相応なことを思い始めていました。  当時、小学校の先生に「将来は何になりたい?」と訊かれた時、ここぞとばかりに、その思いを切々と訴えた気がします……  ただ、人は良い意味でも悪い意味でも変わるものです。小学生の頃に夢ばかり見ていた私も、少しずつ変わっていきました。  世の現実というヤツをたくさん見せつけられ、昔のように夢見がちなことは言わなくなっていました。大人になったと言えば聞こえがいいですが、つまりはあきらめてしまっていたのですね。  本当は、他にも色々な夢があったはずなのです。  しかし、それらは年を重ねるごとに一つ消え二つ消え……結局最後には、一番最初に決めた「小説を書く人になりたい」だけしか残りませんでした。  しかも怠け者の私は、なりたいと思うだけで肝心の努力はせず、はっと気がついた時には長い長い時が流れていました。  いつか自分の本が出たら、母に見せて驚かそう。そして喜んでもらおう……密かにそう思っていたのに、もはやそれも不可能になってしまいました。  本気で焦り、猛然と書き始めたのは、多分その頃のことです。あまりにも遅いスタートでした。  もう時間がない……さぼろうとする自分にそう言い聞かせ、長編や短編を書いて書いて書き続け——  皮肉なことに、なぜか最初期に書いた短編が、この度、こうして本になりました。  そう、この『レイン』は元々、三十枚程度の手書きの短編だったのです。  それが、ネット上で長編として毎日連載を続けるうち、幸運にも好評を得て——  気がついた時には、日に千数百人の方が読みに来てくださるようになっていました。  ごく短いはずだったこの物語も、書き続ける間にどんどん長くなり、いつの間にか優に二千枚を越えていました。  今回、その一部とはいえ世に出たことを、とても嬉しく思います……  この小説のことも書かないといけませんね。  本作に登場するキャラはみんな好きですが——特に、レインのことなど。  レインは、私の書いた小説の中では最初期のキャラなのに、以後私がどんなキャラを創造しても、彼には及ばないような気がします。  どうやら私のキャラ達の中では、一番存在感があるようですね、彼。  ひっそりと消えるはずだった三十枚の短編がなぜか二千枚を越える長編に化けたのも、私にとって、レインの存在が大きかったせいでしょう。  願わくば、これを読んでくださった皆さんも、レイン(あと他のキャラも)を好きになっていただけると嬉しいのですが……  では、そろそろお礼を述べさせてください。  まず、ネット上で連載していた頃から、ずっとこの物語を好きでいてくださった方達へ。  このような長い物語にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。  皆さんが飽きて投げ出していれば、私もとうにこの物語を投げていたはずです。  普段はもちろんのこと、挫折しかけた時には、タイミングを計ったようにたくさんのご感想を頂き、我ながら「これは連載をやめるわけにはいかないな」と焦ったこともありました。  おかげさまでレインの物語は、こうして本になりました。心より感謝しています。  次に、出版化にご協力してくださった方達へ。  無名の私などに機会を与えてくださり、本当にありがとうございます。ポイントが増える度に、信じられない思いで見ていました。  せめて、この本が売れてご恩返しができるといいのですが……  あと、出版社を初め、本作の出版を手助けしてくださった全ての方達に、深く深くお礼を申し上げます。私の拙い原稿のせいで、色々とご苦労をおかけしました。  最後はもちろん——  今これを読んでいるあなたへ、精一杯の感謝を捧げます…… [#地から1字上げ]二〇〇五年八月 吉野匠 「レイン雨の日に生まれた戦士」は次の方々の支援により出版されています。 TaK  川原哲也  叶かのの  森脇慎也  山下浩基 根本利彦  小田裕弘  原田明彦  秋本義則 大庭憲二  村上拓也  豊田泰弘  牛島大輔 HIRO  矢口英寿  crow  勝又孝之  南幸一 小林裕純  ヤスダテツシ  橋本英臣  今本修 石井久志  増井果陽  九條直綺  小林健  SK 吉野 匠(よしのたくみ) 東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「雨の日に生まれたレイン」がネット上で爆発的な人気となり、遂に本書で出版デビュー。現在もHP上での連載は毎日更新を続行中(の予定)。  装丁・本文イラスト—MID  装丁デザイン—オレンジボックス  HP「小説を書こう!」  http://homepage2.nifty.com/go-ken/  イラスト:MID  http://mid.mods.jp/ [#改ページ] 底本 アルファポリス 単行本  レイン 雨の日に生まれた戦士  著 者——吉野《よしの》 匠《たくみ》  2005年10月15日  初版発行  2006年11月30日  9刷発行  発行者——梶本雄介  発行所——株式会社 アルファポリス [#地付き]2008年10月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・「策などないのかもしれんではないか。それに、仮にあっとしても一歩も退《ひ》かずに戦うのみだ」